新年明けましておめでとうございます。松永蓮太郎です。今回の日誌では私の正月帰省について書かせていただきます。
私の実家は石川県にあるのですが、既にご存知の通り元日早々とんでもない事態に見舞われてしまいました。
私は当時、金沢で親戚と集まって食卓を囲んでいたのですが、午後四時ごろ、震度四ほどの地震が襲ってきました。しかしこの程度の地震は慣れたもので幼い子供たちが驚いているくらいのものでした。
大人たちは大したことはないと、たかを括っているとテレビ、携帯からアラートが聞こえ始めその後本震が襲ってきました。私がいた金沢では震度五強を記録し、能登半島では震度七という人の命を奪うには十分すぎる揺れが建物を揺らしていたそうです。
さらに問題はその後、恐ろしい津波の警報音がテレビから流れ、ここでようやく大人たちも事の重大さを理解しました。
生まれ育った石川県が津波に呑まれていくなんて想像もしませんでした。
親戚での集まりは直ちに解散となり、私は金沢から実家に帰ったのですが、地元津幡町へ帰る道中は本当に世紀末という言葉が似合う惨状でした。
帰りの道路は出来る限り能登半島から離れるために逃げてきた車がハザードランプを焚いて停車しており、店もほとんどやっておらず、中には黒煙と共に燃えている家も見受けられました。
道はひび割れ、ところどころ隆起してしまった道路もありました。
家は大丈夫なのかと心配しながら実家に戻ってみると祖母と犬が無事出迎えてくれ、ひとまず安心でした。ですが家の外見は瓦が崩れ落ち、ガラスが割れていました。家横の大きな駐車場には車がびっしり停まっており、人々が避難してきたことが理解できました。また、家の中の御堂の仏具はボロボロになってしまい、私の部屋もヲタグッズが散乱してしまっていました。
私たちは親戚で集まっていたため心に余裕があったのですが、祖母は恐怖でいっぱいだったと思います。このこのから誰かと一緒にいることがどれだけ心強いかということを痛感しました。
この頃は午後六時、能登の町は既に津波にさらわれ、余震が石川県を連続的に揺らしている状況でした。
町に人の気配はなくなり、避難所に人々が集まっていましたが、深夜も絶え間なく余震が襲い、私たちの体は揺れているのかいないのか、判断がつかないほど「揺れ」が染み込んでいました。
そんな中、消防団として人々をレスキューしている父が出動していきました。消化活動から人探し、混乱を解決しようと元日から出動する父は本当に大変だったと思います。そんな父から速報、「水が止まるらしい」。
災害により人が死に、道路が使えず、家が燃え、その上水まで止まるというのでした。
実際、三日後くらいまで家で水の使用はできず、風呂はおろか、トイレもできない状況に陥りました。
あっさりと日々の「普通」が奪われていったのです。そんな中仲間たちの安否確認のLINEや先生からの電話は励みになりました。ありがとうございました。
地震の影響は次の日からも続きました。余震は相変わらず続き、一日中テレビや携帯から恐ろしいアラートがなっていました。風呂とトイレが使用不可能なため、車で被害のない場所まで行って水が必要なことは済ませました。
その間飲み水を確保するためにスーパーにも寄ってみましたが、開店と同時に水や食料が売り切れ。被害の少なかった金沢の方でも相当な恐ろしさを感じている中、能登の人々がどのような境遇だったのかは想像に容易いです。
能登では必死の救命活動が行われ、父もレスキューの業務に日々追われていました。
結局私の家周辺の事態が落ち着いてきたのは地震発生から十日後ほどでした。
余震も落ち着き始め、物資が回ってくるようになり、それでも体に染みついた揺れは消えませんでした。
今回の地震で当たり前のありがたさを実感したと同時に、今尚行方がわからなくなっている方や家族を失った方、その家族のことを思うとやるせない気持ちになります。
元日に起こったこの地震は帰省中の方も襲い、ニュースでよく流れてくる家族でたった一人だけ生き残った方のインタビューは凄惨極まりないです。綺麗事を言う気はありませんが、本当に当たり前の幸せに感謝しなければなりません。
人生で初の自身の力ではどうしようもできない命の危険を経験し、当たり前の脆さを実感しました。
読んでくださっている皆様には大変ご心配をおかけしたと思いますが、益々感謝の気持ちを込めて日々を過ごしたいと思います。今後ともよろしくお願いします。