みなさんこんにちは。4年の栗田です。
まずは尼崎の選手、お疲れ様でした。最後の学生大会を直接応援したかったですが、仕方がないですね。

 

さて、私の部員日誌は毎回長くてみんな辟易としているかもしれませんが、もう最後なので。思う存分書かせていただきます。

私は小5の時、柔道を始めました。こう見えて意外と長いんです。12年間やっていた事になるので、これまでの時間の半分以上を柔道に触れながら育ってきました。
通っていたのは神奈川県立武道館の小学生武道教室。年30回、1回1時間の稽古で、当時はなかなか楽しくやっていた気がします。
ただ、年度の終わりの方に少し乱取りをしていたくらいのレベルなので、頭の中には大会のたの字もありませんでした。ちなみにこの時は同じく武道教室に通っていた空手の方が頑張っていた気がします。

小5、小6と2年間武道教室で柔道に触れたあと、地元の横浜市立西中学校に進みました。
当時から背の高かった私はバスケ部と迷いましたが、小学校でやってきたことと先生の人柄、よりレベルの高い部活に入りたかったこととが相まって、当時男子6名で教室に畳を敷いて活動していた柔道部の門を叩きました。

当時の顧問は優しさと厳しさを合わせ持つ先生で、私に柔道の楽しさを教えてくださいました。
結局私が卒業するまで女子部員は他に誰もいませんでしたが、性別で贔屓することなく、それでいて気にかけるところは気にかけてくれる。若い先生でしたが、試行錯誤して様々な経験をさせてくれ、柔道の厳しさと楽しさをちょっとだけ学びました。

ただ、それでも強くなれたかといえば、そんなことはありませんでした。市大会でギリギリ勝って県大会に出場したのが2回。そのどちらも1回戦負けで、それなのに周りに「県大会に出る」人がほとんどいなかったこともあって、なんとなく満足していました。

そんな私は高校でも柔道がしたい!と考え、家から近く柔道部もあった県立横浜平沼高校に進学しました。ちなみに横須賀学院も受験していたので1歩違っていたら莉子とは高校で出会っていました(笑)

当時の平沼柔道部は2個上の男子の先輩が1人、私が誘った同期の女子が1人、と計3人での活動でした。ワクワクと高校生活を始めたそんな矢先、出稽古先で首の神経を怪我しました。右手の握力が3kgくらいに落ちて柔道どころか勉強もしづらくなり、何に対しても頑張る気が起きませんでした。
リハビリをして柔道復帰したのが高1の年明け。今考えたらもっと早く復帰しろよって思いますが、、当時は柔道に対するやる気が地に落ちていたこともあり、ズルズルと引っ張ってしまっていました。

復帰したは良いものの、受験から考えて1年以上のブランク。しかも神奈川、全国優勝常連、ほぼ私立のみ。そんな簡単な練習で勝てるはずもないのに、私は練習を頑張りもせず、そうすれば当然のように試合では勝てず、父に怒られ、もっと嫌になり、試合が、柔道が怖くなり、嫌いになり、心底、もうさっさと柔道なんかやめてしまいたいと思っていました。

引退直前こそ、どうせもう最後だし、と思って1人で色んな学校に出稽古に行くなどしていましたが、そんな付け焼き刃で勝てるはずありません。引退試合も負け、その時は「あーーやっと終わった。ようやく受験勉強に専念できる!」の気持ちでいっぱいでした。

 

 

 

 

でも、実際受験勉強を本格的にしていく中で、不思議なことに幾度となく、柔道のことがフラッシュバックしてきて、
そうしているうちに、なんでもっと頑張らなかったんだろう、やり方なんていくらでもあっただろうし、結局逃げていただけだった、悔しい、もう1回本気で頑張りたい。そんな気持ちが湧き出てきました。
そんなこんなで私は慶應に進み、いつの間にか哲郎先輩や伴さんのいた慶應義塾体育会柔道部の門を叩いていたのです。

 

 

 

 

 

 

 

合格して初めて練習に来たのが高3の3月。そこから今日まで、長かったけど、あっという間でした。

 

18人もいる同期の中で入学当初知っていたのはあの横須賀学院の五十嵐さんだけ。最初は怖くてたまりませんでした。そういえばもっと怖い(?)大成出身の山室さんは学校名も名前も聞いたこともなかったので怖くもなんともありませんでした。大きい子だなー、何kg級だろと思っていました。笑笑

そこからは練習に必死でついていく日々。これまでこのレベルでこの強度の練習をしたことがなかったので、毎日ヘロヘロで。この頃ご飯を7杯食べても大きくならなかったのはそれだけエネルギーを消費していたせいだったんでしょう。

しかし練習になんとかついていけるようになったら学生大会で勝てるようになる、ただただ頑張れば勝てる、そんな甘い世界ではありません。

 

高校時代幾度となく父に怒られていたこともあり、試合前は緊張して体がガチガチになり、まったく体が動かなくなっていました。大学ではみんなに緊張しなくていい、安心して楽しんで来いと言われていましたし負けて怒られることもありませんでしたが、それでも緊張癖は直りませんでした。

 

結局、4年間振り返っても学生大会で勝ったのはあれだけやる気のなかった高校時代よりも圧倒的に少ないたったの1回。
幸運なことに大学生活で初めて「全国大会」というものに出場し、チームとして「全国ベスト4」という経験まですることが出来てしまいました。でも私はそこに点数という形で貢献していません。

途中まではそれでも何とも思いませんでした。チームが勝てれば、打ちパの未咲をはじめメンバーの調子を上げることだけが私の役目だと思って、そしてそこに安住していました。

 

 

コロナになり、練習も試合もなくなり、いつの間にか3回目の早慶戦が終わり、いつまでも一緒に柔道ができる、そんな気がしていた大好きな女子の先輩たちも引退し、私は主務になっていました。

慣れない仕事たちにバタバタしていたら年末。年が明けたと思ったら緊急事態宣言でなくなる練習。ようやく練習再開し俄然忙しくなった主務業。直前に来る試合延期のお知らせ。正直、もう学生大会に出場することはないんだろうなと思って、悲しくもあり、でもあの大嫌いな緊張感と戦わなくて良いというある種の安心を覚えていました。

 

 

 

 

それが最後まで続くんだろうと思っていました。でも、違った。

最後の東京学生個人の日。いつも通り、緊張しないように、楽しめるように、と思って、予定も仕事もいつも通りつめつめで臨んでみたら緊張しなくて。正確に言うと、緊張で体が硬くなることがなく、その状況を楽しめている自分がいて。

 

初めて「試合が楽しい!もっと試合していたい!」って思ったんです。
中学の顧問に言われた「緊張感を楽しむ」ことの意味が少しだけ、分かった気がしたんです。

でも勝つことはできなくて、今までで一番悔しくて、涙が止まりませんでした。

そこからは、全学出場を決めた山室と石川をできるだけサポートしつつ、怪我のひどい五十嵐の代わりに出る可能性がある全学団体でチームに貢献するために、そして最後早慶戦で笑えるように最後1ヶ月半もっともっと頑張ろう、そう決め、週明けの練習に臨みました。

でも、試合が重なり早慶戦の日程も決まり忙しさが増し、なりたくてなったはずの主務なのに、なんで私はオフすらも日吉に来てずっと仕事しているんだろう、そう思ってまわりを見ることが出来なくなり、柔道にもっと時間をかけたくても思うようにできない日が続きました。

そして迎えた全学団体。
試合の少し前から練習を再開していた五十嵐の気合は本当にすごくて、こんな子がいるのに私が出る幕はないと思いつつ、でも出たい、この大好きなチームに勝利という目に見える形で貢献したい。そう思っていました。
しかし結局出る幕はなく、チームは昭和32年に男子が1回なったきり、女子では初の全国第3位になっていました。
すごくうれしかったし、自分がしたことのない「優勝」という経験もしてみたかった、そういう意味でも悔しかった。

 

でもそれ以上に、自分が試合をして、この光景を見たかった。団体に出られるレベルになりたかった。試合をする選手としてあの畳に立ちたかったし、自分の責任で取るとか分けるとかそういう立場になってみたかった。もちろん、今の私がチームの勝ちのためにできるのはサポートだけだって分かっていても。
最後、準決勝が終わった時、ぴぴがごめんなさいって謝って、未咲が後ろに任せちゃってごめんねって話しているのを聞いて、
今まで積んできた努力も、時間も、何もかも違うのはわかってるけど、それでもこの4年間たくさん教えてもらったのに、そんなレベルに到底なれなかった自分が情けなくて、悔しくて。
同じ気持ちでそこに立っていたかった。

 

 

ある時、同期のある一人に「女子は部内戦しなくて試合出れるからいいよな」と言われました。その時は「そうだよね~ごめんね」などと適当に返事をしましたが、これが結構私の原動力になりました。
別に期待されていないのはわかるけど、試合では勝ちたいしチームにも貢献したい。それを「部内戦で勝たないと試合に出られない」という縛りもなく、自分の努力次第でできる立場にいるのだから、少なくともそれに恥じない練習をしよう。そう思っていました。手段が目的になってしまっていましたしその内容は決して良いものではありませんが。

先輩・後輩・同期・先生、たくさんの人に教えてもらって、胸を貸してもらって、でも全然もらったものを返せなくて
悔しいけど、でもここまでやってきたと胸を張って言えるように
3日後の早慶戦に臨みたいと思います。

 

 

 

最後に。主務について少しお話ししたいと思っていました。でも今の私には「振り返る」余裕なんてなくて、尼崎の選手が無事に戻ってくることを待ちつつひたすら、3日後に迫る早慶戦を何とか成功させるべく準備に徹します。

ただ、それでも言えることはあります。それは本当に多くの人に助けられて、ここまで1年強、主務を続けてこられたということです。
なりたくてなったはずの主務だったのに、ここ1ケ月ちょっとの間、なんで私は主務をやっているんだろうって思ってしまうくらい余裕がなくなっていました。
でもここ数日、私は本当に助けられてばっかりだなと思うことがたくさんあって、それが幸せで、そう思ったらやっぱり楽しくなってきて。
だから最後、笑って、やりきった!と思えるように残り3日、みんなと最高の早慶戦をつくるために頑張ります。

 

頼りなかったであろう私に主務を任せてくださった日時本先輩。私にできる形で柔道部に貢献したくて主務になりたくて、結果できたかは分かりませんが、この経験ができてとても幸せです。任せてくださってありがとうございました。

マネージャー陣。試合で副務に仕事が振れない分たくさん仕事を任せてしまいましたが、嫌な顔せず、それどころかどんどん仕事振ってください!なんて言ってくれてありがとう。みんなのおかげでたくさん救われました。ありがとう。早慶戦頑張ろうね!

追記、たくさん書きたい相手はいますが代表して。
次期主務の佑眞。これから先、大変なこといっぱいあると思う。でも、あなたの周りにはたくさんの仲間がいるから安心して頼って、乗り越えて、最高の部をみんなでつくっていってください。そして、楽しんでください。

 

 

先輩、後輩、同期、家族、その他大勢の関わってくださった皆様。

私の拙い言葉では伝えきることができませんが、慶應義塾体育会柔道部に入って、本当にたくさんの方との出会いに恵まれて、最高の4年間が過ごせました。
本当にありがとうございました。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
早慶戦、絶対勝ちましょう。

 

慶應義塾體育會柔道部主務
慶應義塾大学文学部4年
栗田愛弓