白いカーテンを透かすような八月の朝陽に目蓋を引っ剥がされて、この怠惰が創造的であらんと願う日々です。渇きと痒さにはカフェインがよく効くようで、淹れたての馨が鼻腔を擽り今日を実感させます。ありがとう、ところで君はどこの誰?

おはようございます、魔王です。()

 

〇〇とは、のように何か物事を定義つけることはそれを限定することであり、浅く薄い僕にはとても難しいと感じつつも、やはり定義づけるという行為の孕む魅力に取り憑かれてしまいます。(time より)

その中でも一段と魅力的で曖昧で不可思議な定義、それが「芸術とは」「人生とは」の二つの問いではないでしょうか。そしてその二つの問いに対し、僕にヒントをくれたのがオスカー・ワイルドです。

「人生は芸術を模倣する」

芸術とは、と問われて即答することはできませんが、芸術家とは、と問われればアーティストというワードが浮かびます。アーティストの範囲って一体どこまででしょうか。画家、音楽家、小説家、詩人、建築家、パティシエ、etc。建築家やパティシエがアーティストかどうかは意見が分かれるところでしょうが、自分の想いを作品を通じて表現する、という点では共通しているので僕はアーティストだと感じます。「アーティスト」を日本語に訳すなら「表現家」といったところでしょうか。

有名な絵画を見て何かを感じるように、音楽を聴いて情景を浮かべるように、詩を読んで解釈に勤しむように、僕たちは表現家の作品に対して時代を超えても解釈や評価を加え続けます。そして解釈が加えられることで作品は作品としての輝きを増していくのではないでしょうか。

「完成させるのではない。発生させるのだ。」(横尾忠則)

 

芸術とは「想いや伝えたいことを表現した作品であり、解釈が加えられることでより輝く」ものであると仮定するとどうでしょうか。「人生は芸術を模倣する」とは、「人は生きている限り何かを表現し続け、たくさんの人と関わる中で解釈、評価、判断されることで、完成することのない人としての輝きや美しさを増す。まるで芸術のように。」というのがオスカー・ワイルドに対する僕の解釈です。

「芸術とは感情を揺さぶる感覚をもたらすもの」(あーとより)

個人的に大好きな解釈です。

 

しかし表現家による作品は誰もが理解して解釈できるわけではないことは明確であり、そこが一番難しいところです。有名な絵を見ても手法や当時の情勢などを知らなければ何を伝えたくてどうすごいのかを理解できませんし、語彙がなければ文学作品を読むことすらできません。美術館や個展に行ったり、現代アートに触れるたびに違和感を感じる程度で理解まで至らず、解釈すらできないことが悔しくてたまりません。ですが表現家からすれば誰にでも伝わるように創っているのではなく、むしろ考えて考えて考えさせて解釈させるために作品に自分を隠しこんでいるものであり、だからこそ解釈されたときに輝くのではないでしょうか。他者からの学びを吸収し、自分の芸術の糧とすることで人生を楽しんでいきたいものです。Esketitttttttttttttttttttttttttより)

 

オリンピックもたとえルールのわからない競技でも見ていて感じることがみなさん多々あると思います。一体となって応援して楽しむ人がいる一方で、よく知りもしないのに選手を批判したり「専門家」になってみたりする人もいて、ほんとうにみっともない。オリンピックに限ったことではありませんが、芸術は表面で決めつけることなくお互いリスペクトし合って楽しんでいけたらいいなと。(夜郎自大より)

 

100年も後の世界で目を覚ました姫が初めて会った王子と結婚したのは、自分の目覚めを待っていてくれた人がいたこと、それが何より嬉しかったからではないでしょうか。おはようと笑いかけてくれる人がいる、それだけで強く生きていける気がするのです。しかし魔王、古き想い人に逢えずいとぴえん、永眠につくも然り。

 

藍二乗、憂一乗。