こんにちは、3年の高です。
眼が乾き鼻熟れる季節ですね、冬泥棒はまだまだ好きになれそうにありませんが私を見ろと言わんばかりの主張に喉を潰され思うように声が出ません。なんて鬱陶しくて愛おしいのでしょうか。越された冬を思い出しつつも受け入れる準備をしなければならない億劫さがまた心地よく、今日も春の暖かさを感じるのです。

 

さて、今回は未来の話をしようと思います。現在就職活動に取り組んでいる中で、将来何を成し遂げたいのか、どんな人になりたいのか、そんなことを常々考えています。以前蓮太郎が言っていたように過去を語るのは簡単で、そこに生産性があるのか僕には判断できかねますがどうせ語るなら未来の方がかっこいいじゃないか、それには賛同するほかありません。

どんな未来がこちらを覗いているでしょうか。2043年、正直なかなか想像がつきません。20年前にはスマートフォンなんてありませんでしたし、きっと20年後には今じゃ全く想像できないようなテクノロジーが普及し新しい常識が社会を飲み込んでいるかもしれません。それでも事実や数字に基づいた予測を立てることはある程度容易なので予想がつかないことを。

僕は「個性が認められる社会」が実現されていたらいいなと思います。
「個性」も定義が難しいですが能力然り人格然り、値で評価されるのは仕方ないことですがその値をあたかも個性として判断し、時には範囲から追いやってしまう風向きがすこし方角を変えたらいいなと思うわけです。

小学生や中学生、ルールという枠の中で個性を抑えなくちゃいけないこともあったけど勇気をもう一回口に出して。少し大人びた高校生はのびのびした大学生に鼓動を二拍鳴らして耐えます。大学では個性が認められるようになり、こんな文章を書き始めてもう三節、あっという間に4度目の夏がやってきます。就職活動ではついに個性が求められ、誤解されることもありましたがもちろん悔いはありません。社会人になったらどうなるのか、頭の六畳間は期待と不安でいっぱいです。

 

最近テストセンターで見た言語問題の中に面白いものがありました。

「成熟社会では、人々は消費財にはお金をかけようとしなくなる」

テスト中に思わず声が漏れてしまいました。そこで自身の中で一つ疑問が生まれました。
「言葉」は消耗品なのだろうかと。(テスト中に何考えてるんだ)
1つとして同じ大きさと密度の言葉はないと思ってはいますが、一度使ったらそれで終わりかと言われればそれは違くて、そのまま部屋の隅の置物のように残っていくものや記憶に張り付いて剥がれないものだってあります。言葉のキャッチボールという言い回しを考えると耐久財のようにも聞こえますがキャッチさせずに投げ捨てることだってあって、投げ捨てたボールが当たったら怪我だってしかねません。キャッチしやすいような良質な価値のある言葉を選ぶようにしようと思います。

 

さて、未来の話に過去はつきものです。4年生になるということで次回から今まで書いた部員日誌「お気に入り回」の回顧録を少しずつ書いていこうかと思います。

それでは失礼いたします。