こんにちは、商学部3年の高圭佑です。

もう9月ですね。ふと8月某日を思い出して、私には言い足りないことばかりです。きっと花も惑っていることでしょう。27になったときに後悔しないように、残夏も全力で駆け抜けていきます。

 

この夏は今までで間違いなく1番あつい夏でした。自信をもってそう言えます。
寝ぼけたまま夏を迎えた私でしたが、あることをきっかけに夜長から目を覚ましました。

 

3年ぶりの戸狩合宿では、とても悔しい想いをしました。選手チームで練習する同期や後輩を見て、自分も強い選手たちと練習をしたいという気持ちよりも先に、選手チームのほうがきつそうだなあと感じてしまった自分に心底がっかりしました。それでもなんとか食らいついて、必死に走りました。練習後に部屋に戻ってきて、寝て、誰もいない部屋で起きる。山を下りながら夏が終わって往く光景を大人になったときに果たして私は覚えているでしょうか。それでも戸狩合宿から帰ってきた後の日吉での練習では、わずかですが成長したように勘違いすることができたのでよしとします。

 

少し研究会の話をさせてください。
私の所属する研究会では計量経営学・組織行動論を学んでいます。
戸狩合宿から帰ってきた直後、5日間の研究会合宿で大阪に行きました。
この合宿では、日本から5大学と韓国から5大学の研究会が大阪に集結し、10のグループに分かれて3日間で一つのテーマについて研究し、コンペを行いました。
共通テーマは「若者を対象とした日韓観光事業の活性化のための提案」というもの。皆さんだったらどんな提案をするのでしょうか。

私は曖昧なテーマに頭を悩ませましたが、研究会で学んでいることを生かそうと論理的に「案」を考え、グループの中で提案しました。続いてみんながまじめに「案」を発表するなか、番が回ってきた北海道男子が言いました、「なんかつまんなくない?」と。彼が言うには、せっかくこうして大阪に集まって知らない人とチームを組んで、3日間しかないのに、こんな友達をつくるチャンスなのに、暗い雰囲気で堅苦しくやるのはもったいない、やりたいことを楽しくやろうよ、ということでした。
はっきり言って衝撃でした。発表がある上に、時間は有限なので真剣にやらなければいけないというある種の義務感から解放された私たちはすぐに居酒屋に向かいました。結果的にすぐにチームは打ち解け、研究の方向性を定めることに成功。さらには全体で3位という結果を残すことができました。

論理的にストーリーを描いていく力も必要ですが、そこで求める結末を間違えてしまっては物語はハッピーエンドを迎えられないことを身をもって体験しました。今回は企業のコンペではなくあくまで学生の研究。本当のゴールは発表でいい順位をとることではなく、テーマにあるように日韓の若者、つまり私たち日韓の学生がこのような機会を通じて仲良くなることだったように感じます。ちなみに、硬くなっていた頭も雰囲気もビールでぶち壊され、どのチームよりも仲良くなった私たちの班のテーマは「飲むログ」でした。ほんとにこんなのが3位でいいんですか、教授。

 

そんなこともあり、気が付けば明日は東京都学生柔道大会です。はじめて個人戦の部内戦を勝ち抜いて手に入れた都学のチケット、この夏は大学に入ってから1番真剣に柔道と向き合いました。目に見える結果として、柔道部や支えてくれる家族に恩返しをする最初のチャンスです、頑張ることは当たり前ですがめちゃめちゃ頑張ります。

 

余談ですが、試合の翌日から3日間の研究会合宿、1日開けて3日間の寮合宿(六徳舎)とまだまだ合宿が続いていきます。どれも本当に貴重な経験ばかりです。なんて贅沢な夏でしょう、感謝しかありません。

 

 

 

 

何だか日誌みたいな内容になってしまいました。さて、自己アイデンティティを失うわけにはいかないのでまだ終わりません。今回も続けていきます、無駄話。

 

最近「無駄」について考えてしまいます。以前も同じようなことを言った気がしなくもありません。「一言多い」とかとくにそうですよね。

 

毎度のことではありますが、私の日誌は「無駄」とも思えるような自分語りがほとんどでして、自分でもわかってはいるのですが10人に1人くらいは真剣に読んでくれているのではないかなんて希望的観測を抱きながら書いているわけです。例えば導入で季節に触れてみたり、歌詞をオマージュしてみたり、題名に意味を込めてみたり、文に仕掛けを作ってみたり。例え誰にも理解されていなくても書くことに意味があると思っているので、決して日誌は無駄ではありません。

 

「テーブルにおいた花瓶の白い花。いつの間にか枯れたみたいだ」

この場合はどうでしょうか。本当に大事だったならそもそも買わなければよかったのではないかと思ってしまうわけです。枯れたことにも気づかないくらい見向きもしなかったのだから、枯れてから「それでも綺麗だ」なんて言っても遅い。

 

誕生日に「欲しいものは?」と問われて迷う人も多くいるのではないでしょうか。本当に欲しいものなんていざ手にしてみないとわからないもので、同じように本当に大事なものも失ってみないことにはわからないのだと思います。だから断捨離も難しく、やけに慎重になってしまいます。「諦める」ことも簡単なように見えて、きっとものすごく勇気のいる決断です。ずっと頑張ってきたことや叶えたかった夢が自分を縛ってしまっているのだとしたら、それに気がつき、諦めてもいいと言える勇気を応援したいと思います。それまでの過程が無駄になるなんてことは決してありません。

 

夏目漱石はI love youを「月が綺麗ですね」と訳しました。
僕がどれだけ考えてもそんな訳にはならないでしょう。シンプルに「好きです」じゃダメだったのか、その訳には無駄があるのではないか、と疑ってしまいたくなり、自分なりに考えてみると1つの仮説を思いつきました。
「夏目漱石初心だった説」。漫画あるあるで、「好き」と言ったのを「月」とごまかしてしまう恥ずかしがり屋の主人公がよく存在します。夏目漱石もきっと「すき」を「つき」と咄嗟にごまかしてしまったのでしょう。さらにごまかそうと月を見上げて「月、、が綺麗」、気まずいので共感を求めたくなって「月、、が綺麗、、、ですね?」といった具合です、間違いありません。

 

僕も「月が綺麗ですね」みたいな言葉を作ってみたいものです。あ、こんなのはどうでしょうか。

「君の膵臓を食べたい」

 

おわり。(大変失礼いたしました。)