こんにちは。法学部二年マネージャーの猪熊彩です。

先日、怒涛の期末試験期間が終了し、ついに春休みに突入しました。私の苦手な教科である数学を使った試験があり、すっかり滅入っていましたが、なんとか峠を越えることができました。今学期履修していた精神分析学の授業で、”言葉の恣意性”という概念を学んだのですが、大変興味深い内容だったので今回はそれを紹介したいと思います。

”言葉の恣意性”とは、「言語が指し示すものとそれを示す言語記号の間には必然的な結びつきはない」というスイスの言語学者、フェルディナンド・ソシュールの概念です。言い換えると、私たちは言葉によって物体、現象に意味を与え、それらを区別している、言葉によって世界を秩序立てているといったかんじでしょうか。具体的な例を示します。

一本の鉄の棒(と支柱)があるとします。その棒が遊具のある公園に置いてあったら、公園を利用する人たちは、それを鉄棒と認識するでしょう。ではベランダにあったら?物干し竿になるでしょう。じゃあ戦場にあったら?たちまち武器となるでしょう。

このように、同じ一本の鉄の棒でも状況によってそれが持つ意味が異なってきます。つまり「鉄棒」も、「物干し竿」も、「武器」も、単なる音声に過ぎないでのです。言葉は記号(何かの実体を指し示すもの)ではないのです。

他の例も考えてみました。

「タヌキ」と「アライグマ」は誰かが付けた名前に過ぎず、「タヌキ」がいない地域に住んでる人が、「タヌキ」に写真を見せられても、それを「タヌキ」とは認識せず、アライグマだな、と認識すると思います。(「タヌキ」という概念がないから)

 

私はこの話を聞いた時、この世界は私たちが言葉で造り上げた虚構に過ぎないのか、世界なんて存在しないのか、と頭がごちゃごちゃになりました。(疲れていたのかもしれません。)

この概念を学んで、言語を学ぶことの意味が分かった気がします。他の国の言語を学ぶことで、その言語をしゃべっている人達がその人たちの言葉で行っている意味付けを知ることができ、それはその国の文化を理解することにつながります。

 

なんだからしからぬ日誌になってしまいました。来年度からの三田での授業は高度なものになると思いますが、考える頭が鈍らないよう、春休みもぐーたらせず、考えることを続けていきたいと思います。

本日はこれにて失礼いたします。