こんにちは、商学部4年の高です。

朝6時が明るくなりました。レースのカーテンから毎朝朝日が差し込む角度で時間を測ってみることが最近のトレンドですが、侵入者を横目に平気な顔で眠りにつくのもまた一興です。だらだら、きらきら、みなさまの金糸雀色の外はいかがでしょうか。

 

まずは蓮太郎が「美」の話をしてくれたので私も少しだけ。
彼の考えに非常に共感できるのは現代において「美」は客観的であるという点です。従来自由だった美の探求ですが、主観的美の共有はいつの間にか強要に代わり、教科書には教養として美を生み出す術が記されています。そんな世の中だからこそ主観的美を通す生き方には強い憧れを抱きますし、だからこそ誰しもスッピンには弱い。サステナブルな社会の実現は飾らない美の深化を促すという仮説を立てておきたいと思います。

 

さて、ロゴの持つ何とも言えない魅力に最近はまっております。というのも就職活動を行う中で名刺交換をさせていただく機会があり、そこから脱線して自分のロゴがほしいなあと考えるようになりました。サインとは違って、完全形かつオリジナルデザインとして視覚的に存在を訴えることができるロゴ、名刺代わりになる日を待っております。
スターバックスのロゴがセイレーンであることは有名ですが、その理由はメジャーではありません。しかしほとんどの国民が見た瞬間にスターバックスだと判断できます。何がって名前が入っていてないのが芸術点高いですよね。全然関係ないのになぜかそれだとわかる、間違いなくそれが醍醐味です。

ということで個人的に好きなロゴ3選!
①NIKE
一筆書きで誰だって書くことができるおなじみのあのロゴ。何を示しているかはわからないけど誰だって一瞬でナイキだと理解できる優秀なロゴです。調べてみると「Swoosh」という風をデザイン化したロゴらしいです。謎の爽快感の正体が明らかになってスッキリしました。

②Apple
こちらも有名なかじられたリンゴのロゴ。好きな理由はデザインに至る経緯です。公式にはアダムとイブの禁断の果実にちなんで人類の進歩を表しているとされています、おしゃれですよね。また、一説としてエニグマの生みの親であるアダムチューリングへの敬意をこめてかじられたリンゴにしているとも言われています。単純なデザインに複数の意味が込められている、僭越ながら非常に高得点です。

③マイクロソフト
これは全く意味が解らない。もはや調べるのはもったいないので調べることはしません。異なる色の四角が4つ、新時代の信号みたいなものでしょうか。

過去の詩人は言葉として作品を残しましたが、ロゴのように簡易化されたデザインに落とし込んだ作品も見てみたかったなあと思います。とりあえずはじめは孔子ですかね。

 

ということで今回も回顧録を残したいと思います。
今回は「干支シリーズ」第一弾の回です。

 

~回顧録「顰に倣う」~
まずはタイトル、ひそみにならう、と読みます。
「優れた人の所業について本質を理解することなく、ただ形をまねること」という意味です。

深夜東京の6畳半夢を見てた、という強烈な歌いだしから始まるyamaの「春を告げる」のオマージュから始まります。投稿日時は2月の午前2時、2年前は暖冬だったみたいです。

当時の私はどうしても牛の魅力を伝えたいということで適当なランキングをでっちあげつつ牛のイメージアップを図っていきます。そこでライバルとなるのが鬼でした。ことわざへの出現率や節分という毎年恒例の主役イベントを持っている点で鬼はかなり強いのです。
というわけでこの回のテーマは鬼退治でした。「豆」や「天邪鬼理論」で鬼を倒すことで牛を勝たせたかったのです。

ライバルに勝つために自分を高めるのではなくライバルの弱点を探していましたが、ここで現代詩人「最果タヒ」の詩を思い出します。

 

「塗った爪の色を体の内側に探したって見つかりやしない」

表面を取り繕ったって本質的には何も変わらない、という解釈もできそうですが、個人的には爪は塗ることができる、という点に視点を当てているような気がします。

「1度着た服をほんとうは脱ぐことができない」

ほんとうは、とついていることからも一度着た服のイメージは着替えたって忘れられないという意味でしょう。その服が高くても安くてもキレイめでもストリートでもです。

 

そう当時は考えていたのですが今考えると少し違うような気がします。脱ぐことができなくなってからが「服」という可能性です。ずっとトレーニング着のままトレーニングを続けて筋肉が付いたとしたら、きっとその時は脱ぐことができないでしょう。
どちらにせよ鬼の弱点で作ったパンツを牛が履いても、牛が頑張って美味しくならないことには本質的に勝つことができない、ときっと言いたかったのだと思います。

牛に偉そうに口出ししたはいいものの、当時最果タヒの言葉の本質がわからないまま日誌に使用していた筆者はどうでしょう。顰に倣っていたのは私だったわけです。
そんなことを考えていると時刻はいつの間にか午前2時半、丑三つ時を迎えて眠りにつきましたとさ。

終わり