前回日誌で語り尽くしました。
もうありません。
この短さだとおそらく僕はポイントでしょう。
最後ポイントいただきます。
いい大学生活だった!
バーイ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と書こうと本気の本気で思っていたけど。
最後の最後、二部優勝大会でなんとか優勝することができ色々思いが溢れてきた。
せいぜい二部大会だが何でも勝つって気持ちいい。
やっぱり勝たなきゃゴミだった。

一言でまとめきることのできないこの感情が喜びなのか、安堵なのか、哀愁なのか、或いは憂いかはたまた別の感情なのか言葉にできない。
その感情を知ろうとすることすら無粋な気もしてきて、でもやっぱり、とにかく、ここまで熱い思いをできる柔道に出会えて本当によかった。
あの日、あの時、辞めなくて本当によかった。

あんまり過去を語るのは好きじゃないけど、これからしばらく柔道から離れなきゃだから振り返りも兼ねて過去回想。
(前回日誌で最後は多く語らないとかほざきながら緊急修正アセアセ)

 

柔道人生は、父に連れられた地元石川県の道場で柔道っ子たちにいじめられたことから始まった。振り返ってみれば、当時の自分はいじめられてもやり返す気力さえ湧かない、どうしようもないデブだった。

そんな僕を見かねた父は小学三年生時、地元の石川県を離れて富山県の強豪スポーツ少年団に連れて行ってくれた。地元から片道一時間、そこでの生活は自分にとって未知の連続で、社交性も実力も足りない自分にとっては大きな試練だった。苦手な運動に挑み、初めての人間関係に悩んだ日々が今でも鮮明に思い出される。

それでも、なんとかして追いつこうと必死に努力し、日々家族や大勢の仲間の支えで通い続けた。気がつけば、人と関わる術を身につけ、周りにはかけがえのない恩師や仲間、その家族たちがいつもそばにいてくれた。

このとき、僕には実の父と恩師という、二人の「父」がいた。 二人とも厳しかった。実の父は情けない僕に焦りを感じたのか、他人がドン引きするような指導しかしてなかった。(警察沙汰になったことも少々)
一方で恩師の指導は厳しさの中に愛情が感じられるもので、一度も恨む気持ちが湧いたことはなかった。恩師は厳しさとおちゃめさを併せ持つ人で、その裏にある慈愛を僕は感じ取っていた。

小学生ながら学校の友達と遊ぶことはほとんどなく柔道に命をかけていた。朝も昼も夜も、休む暇もなく打ち込んでいた。我が子に対して容赦ない実の父に対しては憎悪を抱いていた。あの時のような激しい怒りを感じたことは後にも先にもない。

身体はいつも痣だらけで、筋肉痛で動けないこともよくあり、風呂で失神することもあった。ご飯を美味しく食べられることはなく、なぜこんな目に遭わなければならないのかとずっと泣いていた。泣いて泣いて泣くのも疲れて、誰よりも強くなれば辛さも消えるはずだと腹を括った。まずは父を超えることを決意した。いや、超えるとかじゃなかった。そう本当に「葬り去ってやる」って感じ。

齢十にして実の父を屠ることを誓い、二人の「父」に従った。来る日も来る日も、恨みを込めた目で実の父を見据えながら、強さを求めてもがき続けた。そうしているうちに、気がつけば全国で三位になっていた。(ナオキさんや康志郎は小学生チャンピオン。縁しか感じん。)

しかし父の背中はまだ遠く、目標は果たせないまま恩師と別れる時が来た。毎日片道一時間かけて通った道場も、中学校進学を機に地元に戻らざるを得なかった。
気がつくと、僕を育ててくれた少年団はまるで第二の故郷のような存在になっていた。血の繋がりはないけれど、そこには家族と呼べる人たちがいた。辛く厳しかった日々があったからこそ今の自分がいるのだと、小学生ながらに漠然と感謝の意味を知った。

時は流れて中学時代。
愛溢れる恩師の指導から一変し、それからの僕の指導は父が主導となった。
離れていても心は同じと言わんばかりに、結果で恩師に語るべく父の指導はヒートアップしていった。
朝四時半起床、五時からトレーニング、平日は八時から授業、終わり次第部活、終わり次第夜十時まで稽古。休日は九時から稽古、昼食を挟んで再び稽古、トレーニングを夕方六時まで続ける生活を続けていた。
中学にもなると周りもレベルアップしていて、勝てない自分に自身も、父も焦りが積もっていった。
正に日本一になるための過密スケジュール。今考えても二度と戻りたくない時期だし、戻ろうと思ってもあの生活には戻れないと思う。稽古も自分を追い込むことが中心になり、練習試合も自分目当ての対戦が多くなった。
そのうち頑固なプライドが芽生え、チームメイトを始めとした他人に期待することを辞めた。仲間には恵まれていたけど、どこかで侘しさを感じていた。

そんな生活を続ける中、一家の大黒柱の祖父が癌に倒れた。長くはないと告げられ、最後に自分ができる恩返しは何だろうと考えた時に柔道で勝つ以外の方法を思いつかなかった。
そんなこともあり最後の一年、ただひたすらに柔道に没頭した。一日の練習量は八時間を切ることがなかった。いつの間にか中学生ながら大人相手にも勝てるようになっていた。
そして迎えた三年目の県大会前夜、それまでの怒りや葛藤、緊張を超越して妙に切ない気持ちが溢れてきた。
今も忘れない綺麗な星空の下、怒りを抱えて生き続けてきた後悔とその反面で万全の状態で勝負を迎えられるありがたみ、緊張と今までの全てへの感謝を洗いざらい当時の親友に聞いてもらった。感情の整理がつかず、ほとんど懺悔だった。
怪我や病気をした時に健康の大切さを感じるように失って気付く大切さなモノがあることを知った。
前日におセンチになったものの、結果としては県大会と北信越大会は総ナメ、全国大会では念願の三位入賞を果たした。
中学時代は死線を潜り抜けるたびに父に対する憎悪は消え失せ、終わりを目の前に怒りは感謝に変わり、二人で恩人らに柔道で語るという一つの目標に必死になれた。今では「漢」を教えてくれた父には頭が上がらない。
総じて中学時代は父の「雑魚と馬鹿とは関わるな」って教訓が体に馴染むような孤高の生活を送っていた。

全中入賞が人生のターニングポイントとなって高校は慶應義塾の門を叩くことになった。

実は入学当時、それまでの辛い柔道生活から離れられた喜びもあり柔道に対する熱はなかった。
全国三位という肩書きは同期や先輩や監督にもインパクトは強かったかもしれないが、正直そんな肩書き捨てたかった。
中学時代までのように辛い毎日に心を取られて怒りの中で日々を過ごすのはもったいないと感じたから。そんなことよりも自分を取り巻く環境の有り難みや感謝を胸に、優しい人間になろうと思っていた。
慶應に入れて、たとえ弱くても同じ目線で柔道ができる最高の仲間を作って、ほどほどに柔道をやっていればいいんだと考えていた。
我が身一つで生きるのは修羅の道だと知っていた。傷の舐め合いでも馴れ合いでも孤高の侘しさには敵わない。だから弱くなりたかった。
なんなら今もどこか、それでいいんだと、それがいいんだと、そう思っている。

そんなほどほどを願っていたのに、天はそれを許さないようで自分に試練を与えた。
入学してから昔から憧れだったナオキさんに面倒見てもらって、同じような景色を知っているこの人と一緒になら高みを目指してもいいかもと思った。
そしてチームの主戦力として活躍すると覚悟した矢先、右膝の半月板損傷という人生で初めての大怪我を負った。
ほどほどに柔道を続けるとは言っても全国入賞のプライドは少なからずあるわけで、先輩や同期が頑張る中で自分だけが勝負の土俵にすら立たせてもらえないという事実が何よりも辛かった。
そして四ヶ月ほどの間、柔道をやっていない自分の存在意義に苦悶することになった。
柔道に対する熱を再燃させるいい機会だと思ってなんとか乗り越えたが、無理が祟ってすぐに怪我が再発した。
医者に再手術と同じ期間のリハビリを告げられた時はその場で大号泣した。今でもあまり思い出したくない。
ただでさえ短い高校生活、一年近くブランクを背負うことは前線での活躍を諦めるに等しいことで、既に苦悶した四ヶ月もあり完全に心が折れた。
じわじわと蝕まれる苦しさでなく、既に起こってしまったことに対する無力感を初めて経験した。
自分のやるべきことや生き甲斐を失った苦しみというのは人生で最も深い苦しみで、それが人生を懸けてきた柔道だったからこそ尚更絶望した。
自分で何とかするべきだけど一人で抱えるには大きすぎて、だけど相談したら心配をかけている自分に嫌気がさすという負のループに陥った。
自分で言うのも何だが、我が身一つで生きる人間、プライドや正義感ある人間はこうなった時に弱いんだと実感した。ここにきて自分の掲げる「漢らしさ」が裏目に出た。

八方塞がりでどうしようもないほど打ちひしがれている時、救ってくれたのは慶應で巡り会えた恩人、恭平の言葉だった。
「結果なんか出さなくていいし、お前がいてくれればいい。」
頭の良い恭平は本心ではないにしろ、おそらく自分が自暴自棄になっていると感じていたとしても、その時その人が欲しい言葉を選んでいてくれたことを知っている。(実際今年もたくさん救われた。冗談わりぃ、一生よろしく。)

プライドのあまり忘れていた、厚かましいくらいの「ゼロから積み上げる泥臭さ」
親友はそんな強さに満ちていた。
それまでは自分以外の同期に頼るなんてあり得なかった。柔道においては誰よりも濃い人生を歩んできた自負があったし、エースとしても心配はかけられなかった、自分だけでなんとかするべきだと考えていた。
そんな取るに足らないと思っていた他人が自分より達観していて、強いはずの自分が他人に救われる経験なんて初めてだった。

そしてその時理解した。自分以外の他人も必死に生きている。
自分以外は弱くて頼ることはできない、なんてそんなことなかった。
各々が人生の中で強さを磨いていて、頼らない強さに美徳を感じていた自分より根性があって、よっぽど強いことを。

結局、なんとか立ち上がり柔道を続けるも最後の年はコロナでおじゃん。
怪我以前は試合で負けただけでサイトで取り上げられることが普通だったけど、段々と見向きもされなくなったのが悔しくてやるせなかった。過去に比べれば高校生活で大した結果は出せなかった。
でも確かに、絶望から救ってくれるたくさんのチームメイトがいた。
ゼロからスタートする不器用な強さを教えてくれる親友がいた。
そいつらと歩んだ三年で少しだけ、本当の強さを知ることができた。
そんな青春が高校時代にはあった。

大学はゼロから再スタートを切った。
大学生にもなると手強い相手ばかりで、実際思うような結果がついてこないことばかりだった。
でも負けるたびに一歩ずつ歩みを止めなかった。そしてなんとか三年時には念願の全国大会に戻ることができた。
最後の年、出場は叶わなかったけどWCT や都学で注目選手として取り上げられたのは嬉しかった。
一度は本当に辞めてしまおうかと考えた柔道人生、友に救われ、自分を信じて、着実に進むことで六年越しの目標は達成できた。
柔道をやっていると潰れる奴がごまんといる中で、十五年弱の間自分の役割を全うして最低限の強さを誇示し続けられたのかなとほっとしている。

 

そして去年、またしても自分の進むべき道がわからなくなった。
理解してくれる人は少なく、恨みつらみを吐き捨てて去っていった縁がいくつもあって、本当にやっとの思いでようやく見えてきた進むべき道はどうやら「人が宣う地獄」らしい。

つい先日、従姉妹に言われた。「レンの人生は次から次に試練が訪れて、まるで何かに引き寄せられてるみたい」と。
これまで人生のどこかで、とっくに順風満帆、完全安泰な確約された未来があったかもしれない。
それでも落ち着くことなんかなくて、運命は自分に半端を許さない。
でもきっとそれは松永蓮太郎という人間がそのようにしか生きられないからだと、自分にしか成し得ない宿命があるからだと、そう確信している。

これまでの人生、自分はギリギリの戦いを勝ち続けてきた。いつも誰も予想できなかった破天荒な結果を出し続けてきて、見る人を魅了してきた。
それは今年一年、自分以上に体現した人物はいないと自負しているし、実際にそんなモっている自分はチームメイトに愛されていた。

苦しさは勝利と笑顔で塗り固めて、いつも想像以上の未来を掴み取って自分らしさを忘れずに。
そうして生き抜いた先にこそ、他人に示せるモノがあると思う。
自分らしく圧倒的な生き方で周りに笑顔と元気を届ける。これが自分の人生の宿命。
自分らしくあるためにもやっぱり勝たなきゃゴミだ。

 

 

と、ここまで強い言葉で装ってみたけど、やっぱり自分の柔道人生の最終回を迎えるのは寂しいし、どうしても未来に対して不安は付き纏う。

懐かしい故郷に帰れば柔道着で町を歩き回ったことを思い出す。夏の日の帰り道、友達と飲んだジュースがいつまでも忘れられない。
高校道場に続く道を登ればいつでも寝食を共にした仲間との思い出が蘇る。練習して、ゲームして、グミ食べたり、バナナスプライトやったり、ドッジボールもやったし、河川敷で鬼ごっこもした。
今では何も思わなくなった並木も15歳の秋に笹野監督と歩いたことをぼんやりと思い出す。高校時代に思いを馳せていたことを思い出す。痛くて、苦しくて、悔しくて、それ以上に楽しかった柔道部での大学生活を思い出す。
柔道だけじゃなくて、人生で初めて遠出もしてみたし、おしゃれもしてみたし、高い料理も食べてみた。
一日中寝る日もあった。ゲームしていた日もあった。
勉強は結構得意なことを思い出して、友達もそれなりにできた。
常に何かに追われているような焦燥感もあったけど、そんな合間を縫うように人生で初めて恋愛もしてみた。

最終回になってあの時の全部が流れ込んでくる。
おそらく人生や人との縁とはそういうモノだ。
何の役にも立たない思い出も、激しい喜びや深い悲しみも、何も残らなかったって事実ですらも、実際に小さな記憶の欠片として自分の中を漂っている。
「何も為さなくても意味がある」だとか「二度と戻らないけど自分の中で生きている」なんてどこか切なくて、儚くて、やっぱり認めたくない。
みんな分かってる。そんな無意識の理解は漠然とした「不安」に変容して、見えない未来に畏怖してしまう。
今はただ、みんなと過ごした人生で一番の大学時代が「過去」になってしまうのが恐ろしい。
自分や大切な人が織りなした青春の痕跡を形にして永劫手放したくない。

でもきっとそんな寂しさや不安もすぐに力に変えられる。
それこそが人生とか縁の本質だって理解できたし、これまでもこれからも笑顔で死地を乗り越えるって誓ったから。

きっと偶然じゃなかったあの出会いや経験が今、自分が膝をつかない理由になっている。
何も残せなくたって自分の人生を漂ってる。

自分は引退を境に同期と違って休む間もなく夢への挑戦が続く。たった二年後の五月には人生で一番の大勝負が待っている。これから先の人生、柔道に代わる力とアイデンティティと生き甲斐が必要だ。だから柔道家松永蓮太郎はしばらく休業。

同期達!
今はあんまり思い出に浸って泣ける余裕もないと思うから二、三年後にまたいっぱいお話ししましょう。今よりずっとレベルアップした自分を見せてやります!3D2Yって感じ!

今は安泰なんかいらない。苦しんで苦しんで苦しんで、未来の「面白い人間」の糧となる経験を積む季節だ。
こんな経験ができる環境と力に恵まれて、やっぱり自分は最高にモってる。
あの日あの時、本気じゃなくても勝てるって勘違いしないよう天が絶え間ない試練と悔しさを与えてくれていた。

『彼は多くの才能に恵まれている。だが、力あるものはえてして未熟者です。本気でなくても勝ち続けてしまうために、本気の勝負を知らずに育つ危険がある。大きな才能は、負ける悔しさを早めに知れば大きく伸びます。』

なあJ-Boy!こっからが本気の勝負だ!
怖くて悔しいなら動け!泣くより相手倒す方が早えよ!誰よりも恵まれた自分の境遇に感謝しろ!

慶應に入って七年、一瞬だった。
ここから二年もきっと一瞬だ。
全学に出場したのもとっくに一年半も前の過去の話。
年がら年中道場に篭ってトレーニングしてる後輩がいる。
いつの間にか筋肉の塊になってた潔癖症がいる。
気付いたら自分より強くなっていたライバルがいる。
先の見えない日々で泥臭く寝技の技術を盗んだ親友がいる。
膝に大怪我負いながら柔道をし続けたカタコトのバケモンがいる。
物心着いた時からずっと海外で暮らしていた帰国子女がいる。
一年半も勉強しながら兵役やってた留学生がいる。
(一年延長戦確定した長老もいる…)

そんな奴らに肩を並べられるくらい地道に、絶え間なく成長し続けられる人生を送りたい。

ここからもう一回、ゼロから自分を構築する。そんな生き方しか知らない、スマートじゃなくて完璧なんか程遠い、生意気で必死な自分が一番格好いいし大好きだ。

誰にでも優しく
誰をも尊敬して
無限の勝ち筋を泥臭く模索して
必死に足掻く
不器用で
笑顔の
無敵の
英雄

やっと見つけた。

そんな未来こそ自分が目指したかった理想のヒーロー。

My Hero, My No.1。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うおー!書いてて気づいたけどまさかの四年越しの伏線回収!?

詳しくは2021年8月4日投稿の『どこかに魔王いないかなぁ…』をご覧ください。

これはすごい。流石にドラマがすぎるぞ自分!
いやーこれは鳥肌立つね。
意図せず伏線回収ができて嬉しい。

こんな感じで日誌を書けなくなるのは寂しいのでブログ仲間募集しています。
SNSもほとんどログインしなくなって僕の安否も気になると思うので不定期で更新です。

Ameba で活動してます。名前は「れんちゃみぬす」です。https://ameblo.jp/rencham-7016/

第二部、制作決定!

来る二年後、絶対に勝ってやる!

俺たちの戦いはここからだ!

〜四年間ご愛読ありがとうございました。松永先生の次回作にご期待ください。〜