新年明けましておめでとう御座います。松永です。新年初の部員日誌ということで小さな喜びを感じております。
僕は現在石川県の実家に帰省している最中なのですが、家族はもちろんのこと、成人式の年ということもあり滅多に会わない数年振りの友人とも会っています。そこで友人と思い出話に花を咲かせているわけですが、やはりどうしても過去の記憶は煌めいて見えることを実感します。あの頃のくだらない日常も記憶の中では夢の国のように思いだされますし、忘れていた懐かしい話を聞いた時はこの上ない嬉しさが湧き出ます。
不可逆的な事象に対して美しさを感じるのは人間の特性なのでしょうか。
「割れた硝子」、「破いた紙」に「さよならの後の夕日」などなど…誰かさんも寮の窓ガラスを割っていましたね…「彼」は硝子を割ってみたい、美しいものを壊したいという本能に従ってしまったのだと思っています…
とりあえず、不可逆的なものは美しく見えますし、俗に言う「思い出補正」はその結果だと言えると思います。思い出を共に過ごした仲間と話せることは大きなかけがえのない財産であることは、この歳ですでに部分的に理解しています。ましてや慶應柔道部であれば言わずもがな。
去年の始めの部員日誌で過去を振り返るのは好きではないと言いましたが、過去を抱えて生きるのは大いに結構だと考えるようになりました。つまり思い出を自分を自分たらしめる構成要素として生きていくということです。決して逃避ではありません。
「 いつも、「昔のほうが楽しかった」 とか 「いまはなんだかつまらない」とか言ってるけど、きっと未来の自分には今の自分が輝いて見えてるかもしれない。 言葉の通りで戻れなくなって美化されて見えるんだろうね。
だってほんとうに、いまより昔のほうが輝いて見えるもん。
どんどん時代は進化して新しくなってよくなってるはずなのにね。
それに負けないように、今が一番楽しいって思える人生おくれたらいいな。 」
うごくちゃんという僕の大好きだった人間の言葉です。彼女を是非調べてみてください。
激しく変化する時代で自分を見失わないように日々、自由かつ責任感を持って過ごしたいです。
ただ!
辛気臭い思い出話やっぱりいらない。僕には似合わない。先鋒戦でチームが勢い付くように、陸上選手がスタートダッシュを決めるように、(インターバルトレーニングでちょっとフライングするように…)
今年はばっちりスタートからキメていきたいと思います。さよなら2021、ハロー2022、今年もよろしくお願いします慶應義塾。
チーム都倉、なんだか稲妻を纏っているような闘志を感じます。ドラマが待っている気がしてなりません。今年の代は僕が一番お世話になった、一番恩を返したい人たちが率いています。自身が主体性を持って慶應旋風(細谷旋風?)を巻き起こしたいと思います。
辛気臭い過去を振り返るな、厚かましく過去と共存し、恥ずかしげもなく友と胸に誓おう「奪還」を。
今年も行くぞ、慶應義塾體育會柔道部。