こんにちは。

ひっくり返っている蝉を今シーズントータル3匹も助けてあげたので、鶴の恩返しならぬ、蝉の恩返しが来るのを今か今かと期待している、五十嵐です。

私は、決して蝉からの見返りを求めて救護活動をしているわけではありません。生物の中で最も高度な知能を持ち、地球各地に繁殖し、生き物のトップに君臨している人間としては比較的弱い立場である動物や昆虫を守ってあげるのは人間の義務である、と先日動物園に行った時に勝手に感じてしまったからです。(今回の日誌は動物園に行ったことに影響されている部分が若干見受けられる内容となっております。)

 

さて、話は変わりますが、先日キングオブコント(コント日本一を決める大会)の準決勝の観覧チケット抽選に惨敗しました。

お笑いライブに行く機会があまり無く、大学生活の思い出にと心を込めて先行抽選に応募したのですが、期待していただけにショックも大きかったです。落ち込むということは当たるかもという淡い期待を抱いていた末に得た感情です。その期待をメール1通で簡単に打ち砕かれてしまいました。

 

このように生活している中で何かに対して「期待をする」のは私だけではないと思います。多くの人は、日々様々なことに期待をしながら生きていると思います。

今回私はチケットの抽選という出来事に対して期待をしました。しかし、今回のチケットの抽選は一言で言えば「運」。人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせで決まります。

ということは、私がチケットの当選を願って星に祈ろうが、トイレを磨こうが、人に優しくなろうが、特にこの事象に影響を与えることはできず、むしろ期待して心を膨らませ願うだけ無意味だったというわけです。

 

では他の出来事はどうでしょうか。

例えば、1週間後の天気に期待するとしましょう。

これは抽選のように「運」で決まるものではありません。遠足の予定だから晴れがいいな、ラントレがあるから雨がいいな、色々期待することはあるでしょう。

しかし、これも人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせという点では抽選と同じで、いくら私がてるてる坊主を100個作ろうと「自然界の摂理」には敵いません。

 

例えば、ある会社に期待して株を買ったとするでしょう。(株について全く知らないのでイメージで書きます)

これは、抽選のように「運」で左右されるものでもなく、天気のように「自然界の摂理」に左右されるものではありません。過去の記録からこの会社は今後伸びていきそうだぞ、この業界はこれから盛り上がるぞ、色々考え、そして期待することがあるでしょう。

しかし、これも人(私1人)の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせという点では抽選や天気と同じで、いくら私が会社のことを分析して計算して先を読もうと思っても、未知のウイルスによるパンデミックや遠い国の社会情勢など「不確実な時代の流れ」には敵いません。

「運」「自然の摂理」「不確実な時代の流れ」‥これらは私の人生において多大な影響を及ぼすと考えられるのにも関わらず、自分自身の意思や努力ではコントロールすることはほぼ不可能に近いものです。

このように私の周りは「自分自身で自分の期待通りにコントロールできること」がとても少なく感じます。

 

では、私の人生において多大な影響を及ぼすと考えられるものの中で「最も自分自身で自分の期待通りにコントロールできること」と「最も自分自身で自分の期待通りにコントロールできないこと」とはなんでしょう。

自身の人生への影響力が大きくかつ、「最も自分の期待通りに(簡単に)コントロール出来ること」といえば、それは「自分自身」なのではないでしょうか。

人は1日で約35000回物事を選択し、決定しています。常に自分の中のリトル自分に自問自答し、自身の考える最適な行動を判断しているはずです。自分の期待通りに自分をコントロールするために、常に判断の質を高く保つ、そしてそれに伴った適切な行動をとるというプロセスで自分をコントロールすることは比較的簡単なことではないかと思います。自分の行動を最終的に判断し行動するのは他でもない自分なので、必然的に自分自身を自分の期待通りになるような選択肢を選択することができる(無意識のうちにしている?)のではないでしょうか。

 

では、逆に自身の人生への影響が大きくかつ、「最も自分の期待通りにコントロールすることができないもの」といえば、「自分以外の他人」なのではないでしょうか。

なぜ自分の期待通りにコントロールすることができないのか。それは相手の心を読むことは不可能であるからです。

この世界には78億人の個人がいます。上述したように各々が自分の期待通りにいくように選択し、判断し、己をコントロールしながら生きています。よって78億人のその複雑な対人関係において個人と個人の利害の一致がうまくいかないこともたくさんあるわけです。利害が一致しないということは互いに互いを自分の期待通りにコントロールできなかったということになり、争いや揉め事、誤解の発端になります。

 

誰しも自分以外の人間(他人)が心の中で考えていることは目に見えませんし、わかりません。

昔、相手に触れるだけで相手の心を読むことができる少女の漫画を読み、私もこの能力を身につけたいと強く願いましたが、22歳になりそうな今現実にはあり得ないということは理解しています。いくら仲が良くても、いくら同じ時間を過ごしても、例え血が繋がっていても自分ではない他人の心を読むことはできません。物事の感じ方、受け取り方や感覚は人それぞれで、生まれ育った環境や考え方は似ていても全く同じということはあり得ないからです。

 

そのため、人間は読めない心を表現するために、「言葉」という最も詳しく心を表現することができる方法を用いて複雑な人間関係を創っています。

しかし、この「言葉」というものも非常に曲者で、表現方法の中では最も詳しくリアルに心を表現できる反面、最も複雑に嘘をつきます。人間以外の動物はシンプルに本能的に表情や鳴き声を用いて感情を表現しますが、人間という動物はその本能を何重もの理性で覆い被せ、心を「言葉」で表現します。動物の中で唯一檻に入れられず自由に地上を歩き回ることのできる人間は知性を手に入れたがために感情の表現方法が多岐に渡り、その結果「言葉」で嘘をつくことができるようになりました。

 

話は少し逸れましたが、上述したように人間は自分の期待通りに物事が行くようにコントロールしようとします。

しかしそれを人間関係の中で考えた時、個人と個人のぶつかり合いの中で、他人をコントロールすることは「人間は心を表現する上で嘘を巧みに使いこなす」という前提からして非常に難しく不可能なことであると考えます。

 

このように他人をコントロールすることができない、という問題をどう解決していけば良いのでしょうか。人の考えていること、心の中を読むことは先ほど述べた「運」とか「自然の摂理」とか「不確実な時代の流れ」とかと同じで、自分自身の意思や努力ではコントロールすることは不可能なのでしょうか。

その答えとして、私は「他人を自分の期待通りにコントロールすること」は不可能ではあるが、少なくとも限りなく正解(=自分の期待通りにコントロールすることができた状態)に近づけることができるとは思っています。

この正解に導くために必要不可欠な要素である「人間が相手の心を読む(読む努力をする)」ために、我々が無意識かつ日常的に用いているのは「想像する」ということだと思います。

我々は他人の心を読めないという状況の中で、人間のもつ「想像力」を用いることで他人の気持ち行動を予測した上で、自分の行動を最終的に判断し行動して自分の期待通りになるような選択肢を無意識的に選択していると思うのです。

先ほど述べた嘘をつくことができる能力を持ち合わせ「言葉」という曲者のせいでその想像した結果は正解か、不正解かを答え合わせをすることはできません。加えて、人間の心は機械のようにプログラミングされたものでもなく、数学のように方程式で導くことができるものでもなく、理論のように体系化されたものではなく、そして「感情」という大きなバイアスがかかっていることから考えると、他人の心を考えるということは非常に困難なことであると思います。

けれども、相手のことを理解し、分かろうとし、信頼し、そして「想像する」ことで、相手の心を読む努力をした上で自分の意思決定をし行動することで限りなく正解(=自分の期待通りにコントロールすることができた状態)に近づけると思います。このように自分以外の他人(相手)をコントロールすることは不可能であると割り切り、「想像力」を用いて限りなく正解へ近づける努力はすることができると思います。

 

しかし、ここで1つ私の心の中に対立的な意見が出てきました。「そもそも、そんな難しいこと(他人)に対しては期待しないことが一番なのでは」という考え方です。確かにこんなに不確定な要素に期待することは正直コスパが悪いし、自分が受けるかもしれないダメージも大きいです。

しかし、私はきっと今までもそしてこれからも世の中に溢れる「自分の期待通りにコントロールすることができないもの」に対しても、適度な期待をしながら生きていくと思うし、そうしたいと思うのです。なぜならそもそも期待しないという考え方が思考停止の引き金となり、想像力を止め、様々な可能性を止めてしまう危険を孕んでいると思うからです。

 

「自分自身」や「運」「自然の摂理」「不確実な時代の流れ」そして「他人」。何かに期待するという行為は、動物の中で唯一人間だけが持っている「想像力」を働かせ、明日をワクワクさせてくれる1つの鍵だと私は思います。

例え、その期待の先が「自分自身で自分の期待通りにコントロールできないこと」でも。その結果がうまくいかなくても自分の受け取り方や考え方次第で最終的にコントロールすればいいと思うのです。

 

長々しく書きましたが、まとめると

「自分自身で自分の期待通りにコントロールできること」と「自分自身で自分の期待通りにコントロールできないこと」を見極めよう。

人間は本能を理性で覆い心を言葉で表現し嘘をつく。それを念頭に置いた上で、人間関係を創るためには他人の心を理解する必要がある。そのために、我々人間が持つ「想像力」を用いよう。

その「想像力」は人間関係だけではなく「自分自身で自分の期待通りにコントロールできないこと」の解決のためにも使うことができる。

そして、「期待する」ということは決して責任転嫁でなく、可能性を生み出す一歩なのではないか、という自論を長々と書いてしまいました。

 

 

まあ、要するにチケットに外れたということを受け止めるための長い長い言い訳でした。

 

思いついたことをだらだらと綴っていたら正直自分でも何を書いているかわからなくなっているので、突っ込みどころはたくさんだと思いますが、それもご愛嬌で。

気がついたら聞いていたラジオもエンディングを迎え、新聞配達のバイクの音が聞こえてきます。

鳥が空を飛び始め、蝉が鳴き、窓には蜘蛛が張り付いています。また1日が始まってしまいます。

今日にも明日にも自分にも他人にも適度な期待を持って、そしてそれに振り回されることなく、生活していきたいと思います。

残暑が厳しい日々が続きますが、健康第一でお過ごしください!