こんにちは、師走になっても特に何も変わらず浮足も立たない、果たしてそれが良いのか悪いのかは分からない、多分良くない文学部1年の岡崎です。

取りあえず新体制となったので私自身の部内での役職の変化をば。

とうとうただの一般people一年生ではなく、慶應杯係と、慶應杯通信係を拝命しました。いわれた仕事をこなす分には苦手でもないので、自分ができることを最大限取り組み、先輩方を支えていけたら、と綺麗事を述べておきます。

そろそろ、お前このタイトル何やねん全然内容と関係ないだろとお思いの方もおられるのではないでしょうか。おられませんでしたら私の自意識過剰ですね。どうかご容赦ください。

この町は踊る、というタイトルですが、これは私が先日行った弾き語りのライブで一曲目にうたわれた曲であります。

そのライブをした方は別にプロでも何でもない、定期的にライブハウスで弾き語りをしている方ですが、私はその方が本当に大好きで小学5年生くらいからずっと追っかけをしてるのであります。

何が好きかといえば、透き通るような高い声、曲ごとに顔色の異なるギター演奏、ライブの曲の合間の小話、と、上げたらきりがないわけですが、その中でも一番好きなのが確実に明言はしないものの、思いの丈をうかがい知ることのできる抽象的でなおかつ核心的な歌詞です。

こう言ってしまうとアレですが、私はただただ「好きだ」とか「君を守る」とか「会いたくて震える」とか思いをそのまま歌詞にする曲があまり好きではありません。いや別にそれ歌にしなくていいやん、ラブレターにでも書いとけばいいやん、と思ってしまうわけです。

折角の歌という芸術をそんな断定的で陳腐な言葉で埋め尽くしていいのか、いや良いはずがない。「好きだ」と断言してしまえば「好きだ」以外の受け取り方はもうできません。そんなのつまらないじゃありませんか。

メロディー、リズム、そして歌詞。その上で演者のやり方。それらを全て用いて、歌は私たちに思いを届けます。そこに、こう受け取るべきだ、という標識なんてありません。というか要りません。そんなのは引っこ抜きます。

だからこそ、歌詞が大事になってくる。如何に含みを持たせ、受け取り方を人それぞれにできるか、がその歌の最終的な良し悪しを決めると私は勝手に思っています。

そういった点で、私が心酔する彼は完璧なんです。

一見まるで意味が分からない歌詞もあります。ですが、それをアコギが奏でる音と組み合わされば、彼が何を思ってこの曲を作ったのかが、ほんのりと伝わってきます。このほんのり、というのが大切なんです。わかりきってしまったらその先はありません。何度も聴いて、その度に歌の解釈を改めていく。本当に伝えたい思いは何なのか、探っていく。この作業がたまらなく楽しいんです。

そもそもの話、僕達は果たして自分が持つ感情を完璧に言語かできているのか、という問題があります。

一口に悲しい、と言ってもそこには様々な感情が内包されているでしょう。例えば、カップ焼きそばの湯切りに失敗して麺ごとシンクにぶち込んでしまい、シンクの熱湯による歪みの「ベコッ」という音がむなしく響いた時。果たして悲しいの一言で済ませられるかといえば、そうではないと思います。

現存する言語よりも、感情は複雑で、単一的に表現するのが難しいと私は考えています。

だからこそ、感情表現の方法として、芸術が発達したのだと思います。音楽、絵画、文学、どれもパッと見ただけでその作品の真意をつかむことはできません。それこそが、感情、思考の本来の姿を表しているんです。

霧がかかってよく見えない自分の中身を必死に手探りで探し、自分とは何か、を実績でも作品でも何でもいいから表現する、ということが私の至上命題です。

だからこそ私は文学部に行ったのだと言っても過言ではありません。

そういえば文学部の専攻振り分けのエントリーが間近に迫っています。私がこれまで述べてきたことをするのに一番適しているのはどこの専攻か、今のところ国文学か人間科学かで悩んでいますが、しっかりと後悔の無い選択をしたいと思います。

 

そろそろクリスマス、タイトル通り街が踊りはじめ、みなとみらいなんかは男女一組でしか歩くところを見なくなりますが、私はそういうのに縁遠いようで。

多分こういうくそ気持ち悪いこと考えてるからですかね。けどこういう気持ち悪いこと考えてるの最高に楽しいので彼女とかどうでもいいです。

涙で画面が見えづらくなり始めたのでここら辺で失礼しますね。