こんにちは、商学部4年の高です。

やばすぎるスピードの温暖化のせいで恒温動物も体が追い付きません。朝4時にも「起きろ!」と言わんばかりの32℃、常識の範疇に収まらない暑さのおかげでヒューマンエラーが起こりそうです。しかしそんな夏でも月は相変わらず美しく、暑さを感じさせないほど凛と佇んでいます。そういえば月は我々地球には表側しか見せていないらしいです。

気づけばもう8月でして、おそらく僕が部員日誌を書くのは時期的にあと3回になりました。そのうちいつも通り偏った思想を好き勝手に書けるのは最終回を除いた2回ということになります。表現の場を無くすのはつらいので卒業以降はどうしようかと考え始めた今日この頃ですが、とりあえずあと2回はエンジン全開でいきたいと思います。

とはいえ例年のごとく就職活動についても書いておく必要があるので、今回はその話題にも触れつつ話を展開していきます。今回のテーマは「選択と退屈」です。少し長くなると思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

 

まずは「選択」について。
就職活動を終えてこれまでの人生を振り返ると、就職活動を含め「選択」の連続だったなと感じます。進学先や就職先はもちろん習い事や遠足に持っていくお菓子など、日々選択の中で我々は生きていると言えるでしょう。
基本的には、複数の選択肢の中から自分なりのいくつかの判断軸を基に魅力的な要素を抽出し、最も輝いているものを選択し実現する、というフローが成立していると私は考えています。しかし、実はこのフローが成立し得るのはあくまで選択に外部からの力が作用しない場合、つまり「一方通行の選択」の場合のみであり、そういう意味では非常に限定的であると言えます。
例えば就職活動。たくさん企業説明会に出て、たくさんOB訪問して、心から就職したいと思えるような企業を一つ選択したとしても、その選択を実現させるには企業側からも選択されなければ実現には至りません。

 

つまり我々は常に「一方的に選択する側」ではなく、むしろ双方の選択がマッチングしなければならない場面が多い。そして重要な選択のフローには「マッチング」が含まれるということです。
そのマッチングがいかに難しいことか、世に溢れるマッチングアプリなどのサービス数を見れば需要は一目瞭然でしょう。ティンダーやビズリーチは今や恋愛市場(?)や就活市場でなくてはならないほどの存在感を誇っています。仲介者が存在しない第一指名同士のマッチングは運命的で憧れますが、大半はそんなにうまくいかないのが現実なのです。野球のドラフトですらあまり見たことがありません。

 

少し脱線しましたが、要は重要な選択はそううまくはいかない、ということです。そして自分にとって最も有益な選択を実現させるには、①いい選択をする②相手に選択してもらう、という2つの条件をクリアしなければなりません。

①いい選択をする
良い選択をするにはとにかく「知ること」だと思います。企業や業界についてはもちろん自分自身についてもです。いつかの日誌でも言いましたが、死なないために死ぬほど準備をすることは当たり前で、自分の中で自身と企業をマッチングさせる必要があります。

②相手に選択してもらう
ESや面接を通じて、相手が求める人物像や人材に沿ったアピールをすることでしょうか。欲しい人物像に合っていなければ選考フローのどこかで落選するでしょう。まあ自分を偽って分厚く着飾った末にマッチングした相手が、真に望ましいパートナーなのかはわかりませんが。

しかし実際に就職活動を経験するとこの選択の構図、どちらの立場も圧倒的に情報過少だということに気が付きます。
学生側は企業から公表されている情報と、OBの方からいただくお話を基に勝手な像を作り勝手な判断をするしかありません。社会にも出てない僕のような未熟者が言うのはおこがましいですが、新卒社員の3年以内の離職率を見れば入社前と入社後のギャップは存在すると言い切って相違ないでしょう。ただそれが悪いとは思っていなくて、当たり前なことだと思うんです。僕だっていい人材を入手するためには、組織の見られたくないところをあえて見せようとは思いません。そしてそれは逆も然りで、学生だって少しでも自分を良く見せようと偽ります。グループ面接という見栄と欲望のぶつかり合い、とくかく気持ち悪くて仕方がありません。

 

そんな嘘にまみれた就職活動という一大イベントは、なかなかに息苦しいものでした。

「人生がかかっている大一番でどうして自分が落とされなければいけないんだ」
「誰と何を基準に比べられて落とされたんだ」
「たった30分間で自分の何がわかるんだ」

今考えるととても傲慢で恥ずかしい話ですが、当時は本気でそう思っていました。
しかし今ではわかります。面接官だってわかるわけがないのです。

僕の所属するゼミはありがたいことに今年の志願者数がとても多く、面接官として3人に1人は落とさなくてはならない状況にありました。そこで僕は最も発言力のある部屋の面接官を担当しました。入ってからどう活躍するか、などいくつか自分なりの評価基準と2年生の学生生活を左右する覚悟をもって臨んだわけですが、いざ40人の学生の面接を終えてみると手元に残ったのは4つの〇×△と若干のメモのみ。そこから面接官で採用人数に沿って絞る作業を行っていきます。

こういうことか、と思いました。私たちは重要な選択を強いられている学生に対して、数十分で手にした一部分の情報だけを見て判断し、その日のうちに合否を出しました。実際、私が面接時に抱いた印象とは全く異なるベクトルで活躍しているゼミ生もいて、それは嬉しい誤算であると同時に、落としてしまった生徒への裏切りでもあるなと感じます。もしかしたらもっとポテンシャルがあってふさわしい生徒がいたかもしれない。そんなことを言い始めたらきりがありませんが、我々にとってはさほど問題でなくても、落ちた生徒からしたらゼミに入ることができない学生生活が決定してしまう一大事です。
この経験から学生と企業、双方にとって完璧な判断方法などなく、だからこそタイミングや相性といった運要素もあり得る現実を学びました。月の裏側はどう頑張っても地球からは見えないんです。

そして思っているよりも自分自身は何者でもない。本当にずば抜けて魅力的な人間であれば30分で十分に伝わります。そして僕たちが最後に勝負するような学生の経歴や人間性は遜色なくみんな素晴らしいです。だからこそ伝え方や見え方が勝負の鍵なんだなと思います。

 

では虚構だらけの就職活動において後悔のない選択をするためにどうすればいいか、僕は本音の軸を持つことだと考えます。「お金持ちになりたい」「家族と幸せに暮らせる環境を作りたい」「有名な企業に行きたい」「海外で仕事をしたい」などなど、心から望む夢や願望、軸を一つ持って選択することができれば、選択後何か不具合があったとしても自分に言い訳ができません。(多少の後悔はあるのかもしれませんが)

僕の場合、就職活動に対するせめてもの抵抗として、「ガクチカで自分を評価しない企業」という確固たる軸をもって臨んでいました。自分史や幼少期面接を通じてその人の人生を丸ごと見て、インターンのグループワークを通じて人柄や力量を推し量って、しっかり本当の自分と向き合ってくれる企業を第一志望群にさせていただいていました。

 

こんなにも捻くれた私の就職活動を支援してくださったOBの皆様、本当にお世話になりました。心より感謝しております。皆様の偽りのないお話とお言葉に支えられ、最後まで無事に走り切ることができました。社会人としての活躍はもちろん、後輩に還元する形で必ず恩返しをさせていただければと思います。

というわけで(ここまで読んでくれた)3年生、後悔のない選択と理想的なマッチングができるよう応援しています!がんばれ!

 

しかしながら一部分だけを見たテキトーな誹謗中傷というのはいつになっても止む気配すらありません。誰が流したかもわからないネットの情報がすべてでしょうか。その確かではない中途半端な判断が人の人生を狂わすんです。月の裏側はクレーターだらけで醜いと言われていますが、僕は断じて信じません。無論それが真実だとしても月を愛し続ける自信はありますが。

結局実際月に行かないことにはわからないわけですから、一方的な攻撃は控えて対話をするべきだと思います。その結果、思いがけずマッチングする可能性だってあるかもしれません。

 

 

次に「退屈」について。(あくまで個人的な思想なので何卒ご容赦ください。)

夏バテのせいか、最近退屈だなあと思うことがあります。皆さまはどんなときに退屈だと感じますでしょうか。

人はきっと退屈に耐えられないので常に気晴らしを求めます。ふいにやってくる次の予定までの1時間、非常に退屈です。
しかしそれ以上に、ただただ「こなす」ことって退屈だなと思います。全然乗り気じゃない飲み会とか、罰則を回避するために書く日誌とか、単位取得のためだけの研究会活動とか。

要はつまらない=退屈というイメージでしょうか、暇と退屈は紙一重です。そんな退屈を埋めるべく人類は発展し、娯楽の幅も広がって多様な生き方ができる社会に成長してきました。しかしその一方で何をするのにも便利になり時間が掛からなくなったため、人間の退屈はいつになっても無くなる気配がありません。

 

そんな退屈に陥った場合どうするか。
一つとして、退屈にならないように行動や思考をシフトチェンジする、という手段があります。ただただ単位を取って卒業するためだけの学生生活は退屈で、柔道部や研究会活動で目標に向かって努力をするから学生生活は輝きます。きっと飯食って生活するためだけにただただお金を稼ぐための仕事は退屈で、夢や目標の実現に向かって働くから充実するのだと思います。(下町ロケット「二階建ての家」より)
もちろん全員が全員そうできるわけではありませんし、それが正しいわけでもありません。

もう一つの手段として、「テキトーに乗り切る」が挙げられます。いちいちそこら中に溢れかえる退屈をすべて充実させることなんて不可能に近いのでこれが最善策と言えるでしょう。しかしテキトー自体がきっと退屈なので解決にはなりません、ただの乗り切るだけです。
いや、テキトーは退屈でしょうか。テキトーと適当、字面だけではなく意味合いも少し違うように感じます、これが日本語の難しさですね。子供の描く絵はテキトーでしょうか、抽象画はテキトーでしょうか。

 

ということでそんな疑問を解決するべく、久々に美術館に行ってまいりました。今回訪れたのはアーティゾン美術館「抽象絵画の覚醒と展開」です。

いくつか感じたことを羅列します。

〇アンリ・マティスはサインが上手。
マティスは野獣派の代表ですが、絵はあんなに多面的でわけがわからないのにサインはすごく整っていて、一周回って絵が際立っていました。光や色を通じてみることで輪郭を否定する、イノベーションですね。

〇キュビズムは理解してもらう気が全くない。
写実主義の逆みたいなキュビズムですが、私のような一般人には全く意味が解りませんし、考える気すら起きません。もはや一周回ってこれが具体的なのでしょうか。わかるのは、作者は全く理解させる気が無いことと、半端ないエネルギーを持っていること。展覧会場には休憩用の椅子がありますが、あんな絵に囲まれたらむしろ疲れてしまいます。2時間徘徊した後のトイレのドアが信じられないくらい重かったです。

〇ただただ真っ黒キャンバスの作品を理解できない悔しさ。
言葉で表すと以下のイメージです。

写実 →鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス
抽象画 →あゆせがとふるふんこめすちべらずろひか
真っ黒 →んんんんんんんんんんんんんんんんんんん

〇英題を日本語訳するのはなぜか。
【Still life=静物】
正直よくわかりません。生物→静物という感じでしょうか。どちらかというと静命の方が美しい気がしますが、そもそも訳す必要すら感じません。
【Untitled=無題】
これは何だかちょっと違う気がします。無題ってよりは絵を表すとこができる名が無いだけでは。それを無題っていうんですよねきっと。
【Work=作品】
素敵な訳だと思います。無題にするくらいなら作品にすればいいのでは、と思いますが。

 

抽象画は適当でもテキトーでも退屈でもありませんでした。
美術館にいく目的はやはり「行く」という行為にあったのか。きっと友人に美術館の絵の写真を見せてもらい、その絵を一枚一枚丁寧に解説してもらっても満足はできず、きっと途中から退屈に感じることでしょう。
この美術館において僕は観測者でしたが、芸術は解釈が加わってより輝くものだと信じているので気分は伴奏者、とても楽しかったです。きっと退屈なのはテキトーなことではなくそこに「主体性」「信念」がないこと、そんなことを感じた一日でした。

 

選択と退屈。
世界にとって都合のいいBGMにならないように。名前も顔もない人に後ろ指を指されても、フルボリュームの耳栓があれば何も聞こえません!

終わり