こんにちは、成宮陸雄です。やたらと暖かかった11月も中旬に入ると一気に冷え込んできました。六徳舎でも暖房が動き出し、洗濯物と顔が一晩でカラリと乾く乾季に突入しました。

なんて、六徳舎の近況をお伝えするのも最後になってしまいました。

この「引退日誌」。先輩方の引退日誌を読むたびに、自分もこんな熱い思いあふれる日誌を書いてみたいと思っていました。しかし、いざ自分の番となると、タイピングが全く進みません。怖いのです。柔道部での生活を思い返した上で、それがあと数日で終わってしまうと自覚することが(進士はこの恐怖に耐えきれず、あんな日誌を書いてしまったのかもしれません)。

とはいえ、この日誌を書いても書かなくても、「終わりの日」は必ず来ます。せっかくの機会なので、自分の柔道人生の振り返り、また、先生方、先輩方、後輩、同期、家族、その他お世話になった人々へのメッセージとして、書けるだけのことを書き、覚悟を決めたいと思います。

私が柔道に出会ったのは小学5年生の秋でした。当時所属していた野球チームの友人に誘われ、商店街の中にある小さな道場に入門しました。初めて出場した試合では、内股で一本負けを喫しました。当時の私は内股という技があることすら知りませんでした。試合で初めて勝ったのは中学1年生の時でした。決まり技は背負い投げに見せかけた大外刈りで、一本勝ちでした。2年生になると、中等部で部活の賞状などが張り出される掲示板に「入道隼人」と名前の入った賞状が張り出されているのをよく目にするようになりました。名前しか見たことのなかった彼と、後に長い付き合いになろうとは、思いもしませんでした。中学2年生の冬、父の柔道熱が過熱し、弟と共に講道館に入門しました。そこで入道と出会いました。彼との初めての乱取りでは、大外刈り、大内刈り、内股、巴投げなど、ありとあらゆる技で投げられ、完膚なきまでに叩きのめされました。

私が塾柔道部の一員となったのは、中等部の野球部を引退し柔道部に入部した、中学3年生の夏でした。当時の部員数は7名ほど、そのほとんどは初心者でした。野球部のような走り込みやトレーニングもなく、ただ楽しく柔道をしていました。そんな調子で冬になり、綱町道場で行われる寒稽古に参加しました。そこで、塾高柔道部の先輩方に出会いました。皆体中から湯気を立て、目がバキバキでした。しかし当時から私は鈍く、「高校球児以外にも坊主の人っているんだな」くらいの第一印象しか抱いていませんでした。ただ、幼稚舎から中等部、塾高柔道部から大学柔道部へ進んだ直属の先輩である江波戸先輩の「人として強くなれる場所だよ」という言葉を胸に残しつつ、足の小指を痛めていた私は壁際で空気椅子をしていました。

その後、塾高や大学の練習にお邪魔する中で、塾高柔道部の恐ろしさを少しずつ知ることとなりました。しかし、先輩方が、見た目は怖いけれど優しくて愉快な人たちであることも知ることができました。このようにして私は、いつの間にか塾高柔道に入部する道を歩み始めていた、、、わけではありません。

私の塾高柔道部入部を決定づけたのは、入道から私の連絡先を入手した南雲先輩からのLINEでした。「成宮君は塾高柔道部に入るって認識で合ってる?」この一文は、高校ではどんな部活に入ろうか、そもそも塾高とSFC高どちらに行こうか、と悩んでいた私から、あらゆる選択肢を奪い去りました。もう逃げられない。そう当時は悟ったのですが、今思えばこの連絡が、迷っていた私の背中を押してくれたのだと思います。当時のやりとりは私のスマホには残っていませんが、おそらく私は「入部する予定です。」と答え、その数日後、八王子杯に帯同し、後に同期となる大志や蓮太郎と出会い、今はアラブにてEスポーツに関するインタビューにコメントしている吉田豪先輩の強烈な背負い投げの投げ込みを受け、頭を強かにうちフラフラになりました。そして先輩方から「次来るときは坊主だね。」と言われました。私は一旦中等部野球部の同期と春の甲子園を見に行き、心の整理をつけてから、髪を剃りました。

塾高での思い出は到底書き切ることはできませんが、特に印象に残っている出来事をランキング形式で紹介します。

5位:恭平と耳に溜まった血を抜きに行き、太めの注射器一本分血が抜けたこと

4位:ロープ登りでロープの中ほどから滑り落ち、両手の皮がズル剥けになったこと

3位:高校デビューで茶髪になっていた謙太が初めて道場にやってきた日のこと

2位:練習後のトレーニングを皆でサボったのが鏑木先生にバレ、小野先輩がアツい指導を受けるのを目の当たりにしたこと

1位:練習中に熱中症で倒れ救急搬送されたことを、病院で目覚めて知りパニックになり、集中治療室で暴れて鎮静剤を打たれたこと

濃すぎますね。これからも塾高の思い出で一生笑っていられると思います。

 

そして、満を持して、慶應義塾體育會柔道部への入部を果たします。

大学柔道部1年目は、1年を通して柔道部とは何たるかを学んだ年でした。柔道部の人と出会い、部の雰囲気に触れ、早慶戦を見ました。感じたのは、先輩方が自立していたこと、そして、自立した人々が結集したときに発揮される力の強大さでした。あのカッコいい先輩たちのようになりたいと思うとともに、柔道における実力や基礎体力の歴然とした差も、強く実感しました。トレーニングでペアを組んでいた古澤先輩が、私が使っていたウエイトに何枚もプレートを追加してスクワットをするのを見て、具体的な数値として力の差を感じた私は、今野先輩や谷口先輩、藤井先輩にアドバイスをいただきつつ、脚トレに励みました。

また、大学柔道部に入部すると同時に、私は六徳舎に入寮しました。六徳舎では他の部員と衣食住を共にし、普段の何気ない言動や、時たま起こる議論を通して、先輩や同期、後輩の考え方や生き様に触れることで、部員として、人として、実に多くの学びがありました。その中でも特筆するとすれば、中内先輩が放った「明日世界が終わるなら、冷静に世界の終わりを止めに行かね?」という名言です。蓮太郎と2人で、二段ベッドの上でシビれていました。半ば冗談ではありますが、半分は大真面目です。中内先輩がどのような想いでこの言葉を口にしたのかは分かりませんが、いかなる状況でも決して諦めず、やるべきことをやれというマインドは、今後も私の指針であり続けると思います。

2年目は、勝利を渇望した年でした。初めての公式戦である東京都ジュニアでは、初戦であっさりと負けました。誕生日に寮でお酒を飲んで「勝ちたいです。」と言って30分ほど泣いていました(そこから先の記憶はありません)。しかし、部内戦を勝ち抜き、初めて出場した早慶戦でも、良いところなく負けました。対外試合でチームの代表として戦い、その責任を果たせない自分の無力さを痛感すると同時に、責任を果たしうる実力を切に欲しました。

3年目は、考えた年でした。下級生から上級生になり、トレーニングの管理などチームに影響を与える仕事に手をつけ始めた矢先に現れたのが「トレーニングなんて意味ないっショ」と豪語する宗広でした。結局、彼はいつの間にかゴリゴリのトレーニーになっていたわけですが、異なる価値観との対峙は、多くのことを考えるきっかけとなりました。また、就職活動では「自分がどんな人間か」という、果てしない問いと向き合うことになりました。面接であらゆる角度から幾度となく質問されましたが、これは今でも分かりません。私が誰かに教えてもらいたいくらいです。

4年目は、試練の年でした。都学団体の部内戦前に肘を脱臼。思い通りに進まない就職活動。そして膝の靭帯2本の断裂とその手術。厄年かと思いました。とめどもなく涙が流れました。それでも、この逆境に負けたくないという意地がありました。この「意地」というものは、塾柔道部に出会う前、中学以前の私にはまるっきりないものでした。7年強の時間でさほど強くなることもできませんでしたが、これだけは掴むことができました。

書き連ねてみると、私は数奇な縁に導かれ、塾柔道部に出会い、ここまで来たようです。

 

実に幸運なことです。

 

「慶應義塾體育會柔道部」という、「個の集まり」ではない「組織」に、もどかしさを感じる人もいるかもしれません。しかし、私としては、この柔道部が組織であることに、大いに救われました。私が一個人の柔道家であれば、怪我をした時点で完全に潰れていたと思います。それでも、チームとして皆で追いかける目標があったからこそ、私の情熱は保たれました。そして、目標を皆で追いかける過程で、人付き合いが下手な私にも、誇るべき仲間がたくさんできました。早慶戦が終われば、現体制は解散し、4年生は社会人、3年生以下は新体制へと、活躍の場を移します。それにあたり、今までの時間を通して得た仲間、学びは、最高の財産だと思います。かけがえのない縁と、それによって得た仲間、学びと共に、強く雄々しく、遠く遥けく、高く新たに、歩んでいきたいと思います。

 

大分長くなりました。そろそろまとめます。

 

言いたいことは三つです。

 

一つ 塾柔道部内外の全ての先生方、先輩方へ。多くのご指導、ご支援を賜り、そして塾柔道部に巡り合わせていただき、ありがとうございました。

二つ 同期、後輩のみんなへ。最後まで全力を尽くし、それぞれの「次」に繋げましょう。

三つ 最後に、皆さんに質問です。

 

燃えていますか?若き血は。

 

私は燃えています。

 

最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。これにて失礼いたします。