ご無沙汰しております。今年から最高学年になります、松永です。
最近は下田寮での夕飯がとても楽しみになってきています。栄養バランスがとれているだけでなく、なんといってもお味噌汁の優しい味が五臓六腑に染み渡ります。食事の面でも学校に大きく支えられているなと実感します。
ところで、料理が一番美味しくなる時はどんな時かご存知でしょうか。もちろんできたて熱々が美味しいと言う方がほとんどでしょうが、旨味という点で言えば、冷えた時に味が染み込んで味が洗練されていくという見解もあるそうです。カレーやお肉、冷製スープなど納得できるものが多々あります。
人間の本質もそうかもしれません。人生イケイケモードがあれば、一度落ち込んでしまう時はとことん落ち込んでしまうこともあるのでしょう。
そんな時、最低最悪の気分になった時、それこそ人間としての「旨味」が出て、人間として完成されていくのではないかと思います。
自分を客観視して、惨めなまでに落ち込んだ時、自分が「冷えた」状態であることを悲観するのではなく、旨味を熟成させる期間であると捉え奮闘すること、その先に全く新しい洗練された料理としての自分がいるのだと思います。
そしてそれは間違いなく刺さる人には刺さる。
その料理の本質を理解できる人であれば毎日だって食べてもらえるはずです。だから冷えたことに負い目を感じる必要はない。どんどん料理としての自分を高める挑戦、前進を続けるべきです。
そして僕はその料理の完成過程、ミシュラン三つ星までの道のりをできる限り楽しみたいです。ここからの「松永蓮太郎」という料理の洗練の過程で、もっと様々な顧客を魅了し、ベストワンな料理を目指します。
今回もご精読いただきありがとうございました。出会いと別れの春、きっと全てが最高の思い出になります。
フォーエバーハッピー目指して精進しましょうね!
追記
永遠の0を初めて見てみました。現在自分の想像する絶望だなんてものは死ぬことに比べれば贅沢すぎる悩みだと実感して涙が止まりません。
先日、同部屋の成宮と千日回峰行について語りました。塾高時代を乗り越えたのなら案外なんでもやれそうな気がするだなんて無礼なことも言ったりしましたが、窮地を乗り越えた時に人間は、そこを超えて初めて自分の立っている高みに気づけるのかもしれないと今になって思いました。
今の僕は視界が狭く、自分が今置かれている状況こそがまどろみさえも恐怖するような絶望だと錯覚した幼稚な子供です。
今現在、自分の思い通りにいかないことが本当の絶望なのか、答えは絶対に否です。
現代を生きる我々は、永遠の0で取り上げられた戦時中日本の特攻兵の苦しみを微塵たりとも共感できる立場にはありません。
個人の幸せが大きく保証されるようになった社会で、いつしか牙を抜かれて腑抜けて、僕のような贅沢で大きな子供ができあがっていきました。その現状をもう一度疑い、腐った自分を猛省します。
社会が個人に委ねた「自由」の中で本質を見失わずに自己を叩き上げること。
「自由は克己を実現できる者にのみ有効に働く」
「死ぬこと以外はかすり傷」
これからの僕を支えるであろう二つの信念です。
人間は本当に身近なものの大切さに気づかないのですね。この言葉の本質をこれから体現したいです。
長く書きましたが、喋るより動く、これを念頭に自己を絶えず叩き上げます。
この事実に気づかせてくれた小さな小さな痛みたち、支えてくれた仲間たち、本当にありがとう。