こんにちは。総合政策学部4年、マネージャーの和田です。

空を見上げても、木々を眺めても、どこまでも青々としていて、淀んだ心も一掃されるような自然の風景が広がっていることに、時折安堵感を覚えます。

部員日誌っていいですよね。その人の感性や価値観が、少しばかりでありますが、表現から読み取れて。私は人を観察したり、自分自身を研究したりするのが好きです。人を観察するために部日誌を読んでいたら主将である杉村の日誌に、「間違いもなければ正解もない」といった文章が記されていましたが、本当にその通りだと思うのです。人間全ての人生そのものを描くようで。

その言葉を前向きに人間の生活に当て嵌めるのであれば、私たちは生きている以上人と対立もするし、自然を破壊してしまうし、そういった混沌や負の側面が隣あった社会で生きている。けれども、自分が選んだ選択に間違いはなく、その時その時で私たちはどのような姿であっても必死に生きてきたことに変わりはない、ということだと。

だから、つまりは、後悔は人間として存在しているからこそ感じることができる感情としてしか存在し得ないもので、それが物理的に私たちの人生まるまるを覆ってしまう混沌になることはないと思うのです。

ここで表現したいのは、絶対的な混沌は存在するから、自らその混沌に入っていくことはしなくていい、ということです。自分を責めすぎたり、苦しめすぎたり。そんなのは、生きていれば向こうからやってくるので、自分だけは自分を愛せるように、幸せなうちはとことん幸せに生きて、対立がないときはとことん平和に生きてって、そうやって生きていったほうが良いのでは、と。

ただ、混沌がやってきてしまっときはしっかり向き合うべきだと思います。
逃げても、逃げても、こいつはどうも傲慢でストーカー気質で、根絶やしにしないとどこまでも私たちにつきまとってきてしまうので。
ちゃんと向き合って、その時心身ともに疲弊してしまったとしても、混沌が永遠続くことはないと思うのです。まあこれも、ちゃんと逃げずに向き合えれば・・・の話ですが。私は神様がいるかどうか知らないし信仰もないですが、神が愛を創造したのなら、神と対立した人間以外を傷つけたりしないでしょうし、もしそこまで傷つけてくる神がいたのなら、それはきっと神ではないでしょう。

私の話って、なんか変ですよね。伝わりにくいですよね。すみません。

まあ、こんな変な話をここまで続けましたが、
要は自分を心身ともに大切にし、正解がないから他者を受け入れる努力をし、混沌と出会ってしまったらとことん向き合い悩む。
人間だからできることなので、まあ、人間として生まれてしまった以上、こうやって生きていくほかないのだと思って生きることが大切かなと。

みんなを好きでいるなんて仏のようなことはできないけれど、対立しても拒絶するまでの嫌いという負の感情は抱かず、だからといって決して無関心にもならない。これくらいで生きていこうと思います。何よりも心と体を大切に。

別に人を救えなくても、幸せにできなくても、自分がそんな素晴らしい人間でないことを自覚して、もう少し気楽に生きていこうと思います。そのような中でも一番心に留めておきたいことは、できる限り、人を傷つけずに過ごすこと。他者を責めず、自分を責めても責めすぎず、ただ反省しながら前向きに生きる。私が私であるがゆえに、一生の課題です。おわるときまで、がんばります。

みなさんの大切な連休が良い日となりますように。

みなさんに幸せが訪れますように。

もちろん私にも。

そしてその幸せに気づくことができますように。

おわり