こんにちは。法学部3年猪熊彩です。

土屋実(商2)も書いていましたが、昨日(3月25日)は慶應の卒業式にお邪魔し、先輩方の門出を見に行きました。柔道部の先輩はもちろん、ゼミの先輩、授業で仲良くなった先輩、ミスコンの人、昔仲良かった先輩、など色んな方々の最後を見届けることができました。いつもと違って人で溢れる記念館前で吏輝さん、あかりさん、高先輩、雅士さん、陸也さん、颯太さんの姿を見つけた時の安心感!!!袴姿のあかりさんはもうなんだか大人っぽくて素敵で、少し遠く感じました。6名の先輩方は、後輩を後輩らしくいさせてくれて、すごくそれが心地よくて、自然体な学年だったなあと思います。(偉そうにごめんなさい。颯太さんに怒られる!) 皆さま、これからもよろしくお願いします!

 

3月23日(土)は慶應杯でした。朝早くから夕方まで、たくさんのOBの先輩方が審判、会場係のお手伝いをしてくださりワッタワタの中、最初から最後までたっくさんサポートしていただきました。本当にありがとうございました。その後の卒業生祝賀会もですが、柔道部の様々な行事が本当に多くの先輩方のご協力、ご支援の下で成り立っているのだと心から痛感しました。(痛感、と書いたのは今までは与えられた仕事をこなすのみでしたが、最高学年となりより運営側に回るようになって、想像以上にOBの方のご協力があることを知ったからです。)反省をしっかり行い、来年以降、もっとスムーズな運営ができるよう、引継ぎ資料をまとめます!!(資料まとめるの、むずすぎ!)

 

小学生くらいの時から、私はロングスリーパーかもなあと思っていました。(当時はそんな言葉知りませんでしたが)そして中学生くらいの時に、人より就寝時間が早いことになんとなく気付きました。高校生の頃は、ワーキングメモリーを活性化させることを盾に、最近は大谷翔平選手の睡眠時間を盾にして自分の睡眠時間を正当化しています。

誉め言葉はすごく主観的なものであることが多いのに、客観的なものだと思い込んでしまうが故に、傲慢になってしまったり逆に失う必要のない自信を失ってしまったりすることがあるのでしょうか?例えば「センスいいね」という言葉はその言葉を発した人が素敵だと思っていること、つまりその人のセンスが言葉の対象者のセンスと一致している、ということを表しているにすぎないから「センス悪い」と言われても落ち込む必要はない?もしかして「センスいいね」は誉め言葉ではなく共感?

電車の中でスマホをいじっている人といじっていない人、いじっていない人を数えた方が早いけどスマホがない時代の人は電車の中で何をしていたの?読書?それともどこかをボーっと見ていた?すぐに人と繋がることができるインターネットがない時代の人は今の人よりも孤独だったか?それとも孤独であることを眼前にさせられる今の人のほうが孤独を感じているのか?

スマホの登場は、「写真を撮る」という行為をものすごく簡単にしました。簡単なことも意識しないくらいに。でも思い返せば私が小学生くらいの時まではデジカメ、もしくは携帯電話で写真を撮っていたし今のスマホよりずっと画質が悪くて、シャッタースピードも遅かったです。

写真はすぐ撮れるものになり、写真一枚一枚の価値は下がっていなくても「写真を撮る」という行為それ自体の希少さ(?)・価値が下がったことは明白です。誰でも撮れる時代なので。

だから、スマホ普及以後は「写真に収められているもの」ではなく、「誰が」「何を写真に収めたいと思って撮ったのか」という撮影者側の視点が注目されることが多くなったのではないでしょうか。こういう風景、人、様子を綺麗だ、良いな、写真に収めたいと思ったんだという撮影者の意思、意図、思いまで見てとることができる写真ですが、「写真を撮る」という機能に特化したカメラを通して、(スマホより構えて)撮影された写真はよりそれらが鮮烈である気がします。

写真の好きなところは、撮影者の感性が透けて見える以外にもあって、それは写真が視点を限定させるが故に、新しいものに気付かせてくれることです。写真による客観性の獲得?

 

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