あけましておめでとうございます。文学部3年の岡崎です。

早いものでもう2020年。東京オリンピックの年になってしまいました。
私個人的には見に行くわけでもなし知り合いが出場するわけでもなし、特に興味関心はさほどありません。
が、その影響でどうやら前期のテスト期間が前倒しになるようです。うーん、それは良いのか悪いのか、どうなんでしょう。やらなきゃいけないってことは変わらないので、結局どうでも良いのかもしれません。

重要そうに見えて実は些事だったり、どうでも良いことが実は大切だったり、という気付きというか後悔は誰しもあると思います。
それは例えば人間関係だったり、物事の優先順位だったり色々ですが、そこに共通しているのは先入観もとい偏った主観の介在なのではないでしょうか。

まーた小難しい事言ってるよ、と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。実例を挙げてみれば、それはいかに身近でわかりやすい問題であるかが理解できると思います。

例えば、先日の紅白歌合戦。
日本酒をちびちび飲みながら家族とボーッと見ていた私ですが、星野源が屋上で歌っているシーンになった時。
もちろん生放送なので冬空の下、星野源はピンクのダウンで防寒していました。その時、私は歌だけを聴いていたのでそのことをさほど気にしてはいませんでしたが、唐突に母がこう一言。

「ピンクのダウン着こなせるなんて星野源ぐらいなもんだね」

それを聞いた時、私は如何せんボーッとしていたので、「あぁたしかに……」とか思っちゃったわけです。「星野源オシャレだからなー曲もキャッチーだし」みたいな、母の主観にまんまと飲み込まれてしまったわけです。

ただ、紅白も終わりゆく年くる年も終わって布団に入った時、ふと気付くのです。

「……別にそんなこともねぇな」、と。

危ないところでした。星野源しかピンクのダウンは似合わないと、私の中で偏った主観が形成されるところでした。

よく考えてみれば細身で中性的な顔立ちでそれに相応なキャラが立っていればピンクのダウンなんて軽々着こなせるでしょう。恐らく母は星野源という人間の権威をより強いものだと思い込みたいからこそ(言い方を変えると自分が星野源を好きというセンスの担保を補強しようとした)そう言った発言をしたのでしょう。

ここで一つ勘違いしないでいただきたいのですが、私は母の発言をこき下ろしているわけではありません。一つの実例としてあげただけで、こう言った事例は私たちにとっていつでも起こりうるものです。
たまたま前を歩いていた通行人が歩きタバコをしていて不愉快な気持ちになるのと同じくらい、いやそれ以上によくある事なのです。

例えば、価値観の相違の中で、自分の価値観のが優位だと見せつけるために、相対するものを卑下する行為。

簡単に言えば、猫好きの人間が犬のことを、もしくは犬好きの人を貶すように。
自分には理解できない趣味を持つ人のことを、「オタクだ」と指を指すように。
そして例えば、部員日誌如きに労力を費やすのは非効率的でダサいと目を逸らしてしまうような、そんな感覚。

自己正当化の為に自分以外の事物を貶すことで相対的に自分の地位を上げようとする行為に覚えがない人はあまり、いないと思います。
人生のどこかで、人はそういった行為を行ってしまう。

「そんなもの下らない、価値がない」

と、それ自体に直視もせず放り投げてしまうことは非常に楽で、精神衛生上はとても良い。偉そうに講釈を垂れている私にも、幾らでもその経験があります。
寧ろ勝ち負けが付く競技の世界の方が、こういった事象は多く見られるのかもしれません。

ただ、その欠点としては。
それをやられた相手が傷つく、ということと、如何なる時も貶される相手側に裏返り得る、という事です。

漫画や西部劇でこんなセリフを聞いたことがある人も多いでしょう。

「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」

この覚悟が、私たちの中にあるのでしょうか。
言葉の引き金を引くのは簡単ですが、果たして、自分が撃ち抜かれた時の覚悟は。

恐らく、無いでしょう。

何故なら大抵の場合、人は自分だけが正しいと思っているからです。
自分が間違っている訳がないと、そう高をくくり、それが尋常から大きく外れている場合に周りからの叩きを受け、漸く自分の間違っている判断に気付く。
それで通常は回るのでしょう。

ただし、趣味嗜好の相違という良い悪いで分別できない問題を対処しようとした時、一種のバグが起きてしまう。

要は自分の中での正しい範囲が自分自身でしかないのにもかかわらず、趣味嗜好の全体図はそれとは比較にならないほど広いのです。
勿論メインストリームというものはあって、大多数の人間が同じ範囲に収まっているという事実はあります。それでも、それ以外が間違っているという証明にはならないのです。

個人的に、悪と見なされる判断基準は「他人に迷惑をかける」か否かであって、そうでなければ弾圧される謂れもないと思っています。もう21世紀ですから。

それでも、「気にくわない」という理由だけで人は簡単に非難できてしまいます。メインストリームに属している人々は味方がいる故、特にそういった傾向があるように思えます。

ただし、メインストリームの人々は味方が多い分、図らずも裏切ってしまった時のしっぺ返しもまた強烈で、その為如何なる場合でもメインストリームの型にはまらなければならないという責務が生じます。

何ともまた奇妙奇天烈で不便な社会なんでしょう、と偶に感じてしまう訳です。貶し貶され、それを恐れてボンヤリとした「普通」のビジョンを遂行しようとする。

そこに本物の幸せがあるかは、私には分かりません。私はどちらかというと快くは思われないサブカルチャー側の人間なので、特別そう思うのかもしれませんが、本当に好きに生きようとした時、「普通」の枠に全て収まるとは考えられない。

ここまでの批判も、私自身の偏った主観によるものです。だからこそ、私は自分で築き上げた理論武装を絶対的に正しいものだとは思ってはいけない。私が間違った見方をしているという可能性を、常に忘れてはいけないのです。

そこに、大事なものがあると私は感じています。
自分の意見をしっかりと持つことと、それでいて自分が正しいとは限らないという感覚を同時に兼ね備えることができれば、上記のような不毛な争いは起こらないでしょう。

ただしこれが、非常に難しい。
自分がどうでもいいと思っていることを大切にしている人が目の前に現れた時、その人を傷つけないように尊重するのは、自分の「どうでもいい」を表に出さないように細心の注意を払う、ということです。

これをできる人間になりたいなぁと常々思っている訳ですが、これが本当に難しい。人に迷惑をかけず、人をむやみに傷つけず、それでいて自尊心を保つ。たかが20年の人生で身につくものではないでしょうね。

だから、将来的に身につけられるよう、今のうちから努めていきたいと思っています。

さらに言えば、私が引退するまでに、日誌なんてどうでもいいと思っている人を少しでも減らせれば、広報冥利に尽きます。

ま、興味がない人はこんな長文最後まで読まないんですけど。

最後の最後に、今年の抱負を書いて終わりにしましょう。

写真を撮る時、良い笑顔ができるようになる。
写真苦手なんですよ。だから顔こわばっちゃって。

以上です。ありがとうございました。