こんにちは、法学部政治学科1年の木下です。

最近やっと寒さが深まり、冬の訪れを感じています。

夏の気だるさに嫌気が差し、秋の到来を切望していたのにも拘らず、気づいたら冬になってしまいました。さてはて、秋はどこへ行ってしまったのでしょうか。

地球温暖化の影響の一つとして「春や秋が消え、夏や冬だけになる。」という話がありますか、私は疑いの目で見ておりました。温暖化ならば ’四季それぞれの気温が上がる、つまり冬が無くなるのだ’ というのが私の仮説でした。しかし、実際本当なのかもしれませんね。今年は正に秋といえる日がほぼなく、主に暖秋時々極寒という形であったと記憶しております。一体全体来年に春は来るのでしょうか。とても奇妙な一文ですね。毎年季節が巡り巡ることは普遍の理であったはずなのに、それが揺らいでいる。

一つあることに気が付きました。春という季節がもし消滅したら、例えば「誰々に春が訪れる」というような表現が使えなくなるのではないでしょうか。極当たり前のことを言っているように思えますが、あまりにも当たり前すぎて誰もが気にかけていないことなのではないでしょうか。

地球温暖化という問題を考える際、私はどうしても環境破壊や我々の身近なレベルの話にしか考えが及びません。しかし、当たり前ではありますが文化も破壊されるのですね。海面上昇により地域に住めなくなり文化が破壊される。森林火災で文化が破壊される。これらのような物理的な破壊はよく議論が交わされるところですが、上記の「春が訪れる」のように、誰もその真意を理解できなくなることで徐々に消え失せる文化があるということにも留意が必要なのかもしれません。

特に日本や中国のように長い歴史を誇る国々には普遍的なもの(季節の風物詩等)を使用した表現があまたあります。それらの内のほとんどが消滅の危機に瀕しているのかもしれません。そのような表現を多数擁する古文漢文が私は大好きなのですが、とても悲しい気持ちになります。

和歌はなんの意味をなさなくなる。ことわざも意味不明になる。源氏物語や枕草子は名作とは言われなくなり、万葉集や古今和歌集は誰にも理解されなくなり歴史的価値だけを持つようになる、、、

言語はその民族が持つ最大の財産であるため絶対に消滅を許してはいけません。

私は現在サピエンス全史という本を読んでいる最中なのですが、他の動物でも他のホモ族でもなく、我々ホモ・サピエンスが成功した秘訣はその言語の柔軟性にあるそうです。その柔軟性=表現の多様さを失ってはならないのではないでしょうか。

次回からは私の大好きなものについて書いていきたいと思っております。どうぞお楽しみに。

 

 

終わり。