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2026

理系連載休載

平素よりお世話になっております。理工学部1年の堀越康成です。最近は梅雨よりも雨が降り続いているような気がして、気が滅入ります。テンションも上がらないまま大学の難しい講義で困憊し、またテンションが下がる。そんな負のスパイラルから、どうにも抜け出せずにいます。なかなか原始的な悩みな気もしますが、解決するのは難しいものです。人類700万年の知恵と技術でも、やはり天候はどうにもならないですよね。


ここまで天気の話をしてきましたが、この話題は一説に依ると1番おもしろくないとのことです。確かに、誰も笑いながら天気の話はしませんが、そんなにもつまらないのかと驚きます。一方で、だからお天気キャスターはアイドル的な方が務めるのか、と納得した私もいます。効率の良い視聴率の取り方だな、ともしみじみ思います。実際は、他にも、天気は他局がほぼ同じ内容を放送するためという理由もありそうですが。


さて、天気の話はいったん置いておきまして、今回の本題に入りたいと思います。本当でしたら、今回は理系連載の続きを書かせていただこうと思っていたのですが、少し書きたいことがあり、休載させていただきます。


そして、今回の話題というのは、「自分」とはなにかということです。


皆さんに1つ質問があります。「自分」と言われて、これがこうでここがこうだから自分だ、と答えられますか。もしかしたら、この体でこの記憶があって、なにより生まれてきて育った自覚があると答えられるかもしれません。しかし、この答えは本当に絶対的なものなのでしょうか。


例えば、他人と入れ替わったとして、入れ替わった相手の記憶も自分の記憶もあるとした時、それは「自分」なのでしょうか。体は他人のもの、記憶も他人のものを所持している状態で、果たしてそれは本当に「自分」なのでしょうか。


ここで、究極的な疑念を提示すると、入れ替わった際の自分の記憶は、突発的に入れ替わった相手の中に生まれた、第2の人格や記憶ということはないでしょうか。つまり、もともと入れ替わる前の自分など存在せず、入れ替わりもしていない、ただ、1人の中にありもしない記憶が出てきている可能性がないか、ということです。


ここで、もう1つ似た有名な仮説を紹介したいと思います。世界5分前仮説というものです。


この仮説は、今私たちの生きている世界は、認識している現在より5分前に全てが出来た、という仮説です。これは否定することも、証明することもできないことが知られています。簡単な例で確かめてみましょう。まず、否定するために1年前に出来た怪我がここにあるから、1年前は存在した、と主張したとします。この怪我は、物的証拠となりそうな気がします。しかし、その1年前という記憶も怪我自体も5分前に設定され、作られたものだと言われると、もうそれ以上この主張は通らなくなってしまうのです。


このように、他の疑問や否定も全て、5分前に刷り込まれた記憶と状態だ、という短い主張で退けられてしまうのです。


ただ、この仮説が正しいとも言えないのは、過去を証明することは出来ないからです。未だ誰も過去に行けず、また、5分前という数字は1分前でも変わらない議論になりますし、そうすると逆に38億年前に出来たと言われても、変わらない議論になります。


よって、この仮説を証明することは叶わないわけです。


少し戻って、では、この仮説は「自分」とどう関係するのかを書きたいと思います。


この仮説で、実は最初の入れ替わりの話の最後の可能性を裏付けられるのです。


入れ替わりの話は、最後に突発的に自分の意識が出来た可能性があるといいました。この可能性に対する反論は全て、世界5分前仮説と同様の形で退けられるのです。つまり、いま自分の物と認識してる記憶は数秒前に作られたものだ、といえば反論が出来ないということです。


また、入れ替わりに関する条件を、相手の記憶は消去されて、確実にいまの自分と感じている意識が体の支配者と認識しているとすれば、生まれた時は自分ではなかったはずなのに、生まれた時から自分であるように思えるわけです。そして、それも世界5分前仮説によって、可能性があることが裏付けられるわけです。


ここまで来ると、段々と「自分」が何か見失いそうでモヤモヤしたような感じがしますよね。


ただ、この「自分」を見失う、つまり、自と他の境界線が曖昧にすることは、あらゆる争いをなくす手段でもあります。「自分」という概念を拡張し、他人という概念を失うことで、人類全体を、あるいは生命全体を「自分」と定義すれば、全ての争いをなくせるわけです。


つまり、「自分」と他を区別しなくなれば、かえって、全てが「自分」になり、争いはなくなるということです。言い換えれば、「自分」の中で葛藤すること以外なくなるわけです。


しかし、このことを実現するのは非常に難しいものです。なぜならば、言語が存在しているためです。


私がいま書いてきたこの文章も、私がここで使ったこの「私」という単語も、言語自体の全てが他者に伝えるために生まれたものです。そして、言語を使い続けている限り、他者へ伝達するという目的意識が人間の根底にあり続けているということです。つまりは、自と他を区別し続けているということです。


ですが、人類は自と他を区別しながらも、出来る限り「自分」を拡張しようと努力してきました。その成果が、秩序と法と社会です。


秩序と法を作ることで、禁止事項などを共通認識として全員に意識させ、自と他が一致する部分を作り出しました。そして、社会という言葉で、個人個人が集まったときに、その人々を区別するのではなく、その集団として1つと捉えられるようにしました。


こうして、人類は言語という他者を区別するためのものの中に、他者との区別を最小限にするための矛盾した言葉を作り出したわけです。


今回は、「自分」とはなにかという疑問から、その意識が何をもたらすのかということを考えてきました。いかがでしたでしょうか。


もし、この話を面白いと思ってくださった方がいらっしゃいましたら、ぜひ「光が死んだ夏」というアニメを見てみてください。また少し違った方向から、「自分」を見つめ直せると思います。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。次回はまた理系連載に戻そうかなと思います。


では、また次回。


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