失礼致します。甚だ僭越ながら自己紹介させて頂きます。私本年度慶應義塾體育會柔道部、並びに慶應義塾大学理工学部1年の堀越康成(ほりこし こうせい)と申します。以後宜しくお願い致します。
出身高校は明治大学付属中野高等学校で、出身地は神奈川県川崎市です。中学、高校ともに男子校であったため、希望と幻想を胸に秘めながら、慶應義塾大学での生活を楽しませて頂いております。一方で、コミュニケーションの取り方がわからない時があり、しばしば苦労しております。
初めての部員日誌の投稿ということで、私の経歴についてご紹介させて頂きます。私は、家族の都合で3歳ごろから小学2年生までを、岡山の地で過ごしました。岡山へ移住した頃の私は水に対して強い恐怖心や嫌悪感を抱いておりしまた。水に顔をつけることも出来ないことから、水慣れとしてスイミングクラブに入会致しました。それから約2年を経て、水への恐怖心がなくなり、ようやく補助具を付けて泳げるようになりました。
この頃に、これまでの19年間の私の人生で最大の転機が訪れました。ある日、普段と同じようにスイミングクラブでのレッスンを終え帰宅する際に、そのクラブの選手コースが練習をしていました。当時の私にとって、選手の方々は想像を絶するほどのスピードで泳いでおり、感銘を受けました。そして、次の日に選手の練習を担当しているコーチに直談判を行い、選手育成段階である小学生低学年、中学年の練習に参加させて頂けることとなりました。補助具を付けなければ泳げなかったため、最初の頃は非常に苦労致しました。その後、週8回の練習を約3年半続け、小さな大会に出場出来るようになった頃、再び家族の都合で出身地である川崎市に帰郷することとなりました。岡山で通ってたクラブチームとは別のクラブチームへと移籍することとなり、練習は週6回へと減少致しました。小学4年生になった頃、高校受験や大学受験などに左右されず中学、高校は競泳に没頭したいとの思いから大学付属の中学へと受験することを決意致しました。
結果として、明治大学付属中野中学校・高等学校へと進学しました。しかし、入学後すぐに、コロナウイルス感染症のため、学校はオンラインになり、競泳の練習は中止するという期間が始まりました。外出も出来なかったため、自宅で自重の筋力トレーニングに励む毎日でした。そして、コロナ禍が明けた後は、競泳にのめり込む日々でした。満員電車に揺られながら通学し、授業を受け、帰宅してから練習に向かう、このサイクルを平日はずっと繰り返しておりました。また、休日は朝6時30分頃から練習を行い、練習後はすぐに帰宅し仮眠を取ったら夕方というようなサイクルでした。このサイクルによって、中学で関東大会に出場することが出来ました。ですが、高校では思うように結果が出ず、中学生の私のベストタイムを超えられないまま、高校3年生の初夏の頃に最後の試合を迎えるという非常に悔しい形での引退となりました。しかし、今の私としては、惰性で続けるのではなく、しっかりと区切りを付けられたことは、大変大きな人生の糧になったと考えております。
ここからは柔道部に入部させて頂いた理由をご紹介させて頂きます。
まず、きっかけとなった事は、高校1年生の頃に遡ります。当時の私のクラスの担任が、高校柔道部の監督でした。最初のホームルームでは、一切笑顔を見せず、低い声で淡々と連絡事項のみを伝えていくだけだったので、雰囲気に圧倒されたことを覚えています。このような出来事もあり、次の日、私は恐る恐る学校に向かいました。学校に到着し、ホームルームが始まると、昨日とは一転して、笑顔で時々ユーモアを交えながら、お話しされていました。急激な変化に戸惑いながらも、数ヶ月後には、先生の優しさと心の余裕といった寛大な姿に次第に憧憬の念を覚えました。憧れの先生の姿に少しでも近づくために努力を惜しまない、と強く心に誓いました。この憧れがきっかけで、競泳を続けながらも、先生が人生の柱とされている柔道に対して強い興味を持ちました。そして、興味を持ったまま、高校2年生の夏にパリオリンピックの柔道競技をテレビで拝見し、柔道の新たな魅力をいくつも発見しました。このときに、高校で競泳を引退した後は柔道の道に進むと、強く決意致しました。その後、水泳を引退し、勉学に励み、慶應義塾大学に入学し、私の出身高校の先輩であり、今も大変お世話になっております、朝飛先生のご支援もあり、慶應義塾體育會柔道部に入部させて頂きました。
私は柔道初心者ということもあり、まだまだ学ばなければならない、未知の事が多くありますが、先輩方や同期のご指導もありまして、辛くも楽しい柔道生活を送らせて頂いております。これからも1本1本の打ち込みや乱取りに集中して、毎日の稽古を大切に精進して参りますので、ご指導、ご鞭撻の程よろしくお願い致します。

