平素よりお世話になっております。理工学部二年の城武卓頼です。今回は科学について書いてみました。
初めに、本稿では数学や物理学をはじめとする科学について触れますが、あくまで一学生が自身の理解に基づいて書いたものであり、厳密性に欠ける表現や説明を簡略化している箇所があることを、あらかじめご了承ください。
本稿は部員日誌としては長文のため、以下に目次を設けておきます。いくつかの章に分けており、それぞれある程度独立した内容になっていますので、気になるところだけでも読んでいただけると幸いです。
【目次】
前置き
第1章 科学を学んで得られたもの
第2章 座右の銘
第3章 理系の考え方
第4章 科学の欠点
第5章 科学の面白さ
第6章 最近興味深いと感じたこと
最後に
前置き
今回は、これまで主に二つの理由から執筆を見送っていたものの、いずれ必ず書こうと決めていたテーマについて書かせていただきます。
一つ目の理由は、文章量がかなり多くなってしまう可能性があったためです。しかし、前々回約3500文字に及ぶ部員日誌を書かせていただいたことで、その点に対する抵抗感はだいぶ薄れました。
二つ目の理由は、人によってはあまり興味を持ちにくい内容であり、さらに多少専門的な用語が登場する可能性があるためです。しかし、他の部員もそれぞれ思い思いのテーマで執筆されているようですので、今回は私も、自分の書きたいことを書かせていただこうと思います。
皆さんは、理系科目に対してどのような印象をお持ちでしょうか。「将来役に立たない」「難しい」「退屈」と思っている方も少なくないのではないでしょうか。そう思っている方の中には、数学ⅡBまでの基礎的な問題や、化学基礎、物理基礎などを学ぶ中で挫折してしまった方も多いのではないかと思います。
今回、理系科目についての私なりの考えを述べることで、理系科目を切り捨ててしまうことがいかにもったいないことかをお伝えし、少しでも科学に興味を持っていただければ幸いです。
私の持論では、よほど相性が悪くない限り、科学は学べば学ぶほど、いずれどこかに面白さを感じられるものだと思っています。
初めに、そのように考える理由を簡単に書かせていただきます。
ほとんどの方は、これまで何かしらの問題を正しく解き、それによって快感を得た経験があると思います。それはクイズでも、一問一答でも、数学の文章題でも構いません。
では、その中でも、より強い快感を得られるのはどのような問題でしょうか。大抵の場合、簡単に答えられる問題よりも、多くの人が解けないような難しい問題や、試行錯誤を重ねてようやく正答にたどり着いた問題ではないでしょうか。
私が中学生頃まで数学を最も好きだった理由も、難易度の高い問題について試行錯誤し、正答したときの快感を得ることが大半であったように思います。
しかし、物理に出会ってから、私の考えは変わりました。現在、私が最も好きな科目は物理学です。その理由は、数学以上に物理学が、学べば学ぶほど「世界が広がる」という感覚を与えてくれるからです。
この「世界が広がる」という感覚は、少なくとも私にとって、問題に正答したときとはまた異なる、非常に大きな快感をもたらすものでした。この「世界が広がる」とはどういうことなのかについては、後ほど改めて書かせていただきます。
以上を踏まえると、私の中では、
一問一答やクイズなどに正答する快感
< より試行錯誤が必要な問題に正答する快感
< 世界が広がる快感
という関係になっています。
これが、今回お伝えしたいことの一つの結論です。
次に、科学の興味深さを少しでもお伝えするために、いくつか具体例を挙げてみます。
一つ目に、以下の数式を考えてみます。
1+2+3+……=-1/8
一見すると到底成立しそうにない式ですが、次のような計算を考えてみます。
1+2+3+……=A
とおくと、
A
=1+(2+3+4)+(5+6+7)+(8+9+10)+……
=1+3×3+6×3+9×3+……
=1+9(1+2+3+……)
=1+9A
したがって、
A=1+9A
となり、
A=-1/8
が得られます。
もちろん、通常の意味で1+2+3+……を足し続ければ値は無限に大きくなっていくため、この計算によって本当に-1/8になるわけではありません。しかし、一見するとそれほど不自然には見えない式変形によって、自然数を無限に足したものが負の数になるという奇妙な結論が導かれてしまいます。
では、一体どこに問題があるのでしょうか。
系統はかなり変わりますが、二つ目に興味深い事実を一つ紹介します。それは、「光速度不変の原理」です。
例えば、止まっている人から見た車の速度が100km/hだったと仮定します。その車と同じ方向に50km/hで走っている別の車から見れば、最初の車は50km/hで走っているように見えます。これは私たちの感覚からすれば当然のことだと思います。
しかし、この当たり前のことが光では成立しません。
止まっている人から見ても、光の速度に近い速さで移動している人から見ても、真空中の光の速度は同じ値になります。つまり、どれだけ光を追いかけるように移動しても、その分だけ光が遅く見えるわけではないのです。
三つ目の具体例として、「観測」についてお話しします。
量子力学では、私たちが日常生活で当然だと思っている「観測する前から物体の状態は一つに決まっている」という考え方が、そのままでは通用しない場合があります。
例えば、箱の中のサイコロを想像すると、私たちは蓋を開けて確認する前から、実際にはどれか一つの目が出ていると考えます。単に私たちがその結果を知らないだけです。
しかし、量子力学で扱う対象では、これとは異なり、観測するまでは複数の可能性を含んだ状態として記述され、観測することによって特定の結果が得られるという、私たちの日常的な直感とは大きく異なる現象が現れます。
ここで挙げた三つの例について、「なぜそうなるのだろう」と少しでも疑問を持っていただけたでしょうか。気になったものがあれば、ぜひ調べてみてください。
ここからは、私自身が科学を学ぶ中で考えてきたことや、そこから身につけようとしている思考法など、私の書きたいことを自由に書き連ねていこうと思います。
1章 科学を学んで得られたもの
私が科学を学ぶことで得られたと感じているものは、大きく分けると「知識」と「思考方法」の二つです。
まず、知識について書いてみます。
皆さんは、小学生の頃よりも現在の方が、クイズ番組を楽しめるようになっているのではないでしょうか。例えば「東大王」を見るにしても、クイズ研究会に所属する方々がどれほど優秀なのかを以前より理解できたり、自分自身の知識が増えたことで一緒に問題を考えたりできるようになったりします。
つまり、知識が増えれば増えるほど、楽しめるものの選択肢も増えていくということです。
私自身、先日国立科学博物館を訪れた際に、このことを強く実感しました。
私は幼少期に恐竜が好きで、国立科学博物館には幾度となく足を運び、恐竜などの展示やお土産コーナーに入り浸っていました。先日、久しぶりに訪れてみると、当時の記憶が蘇り大変懐かしく感じる一方で、同じ展示を見ているはずなのに、その見え方が大きく変わっていることに気づきました。
幼少期には単純に「恐竜がかっこいい」「この展示が面白い」と感じていたものを、今ではこれまで学んできた知識と結びつけながら見ることができます。同じ場所、同じ展示であっても、自分の持っている知識が増えることで、新たな面白さを見つけられるようになっていたことに、どこか感慨深さを覚えました。
また、他の方がどうかは分かりませんが、少なくとも私には一定の知識欲があります。そのため、新しいことを知るという行為そのものにも、ある程度の快感を感じます。
ここまでは、科学に限らず、どのような分野の知識にも当てはまることだと思います。
では、科学、特に数学や物理学の知識にはどのような特色があるのでしょうか。
私が特に感じるのは、「一つの知識から多くのことを導ける」という点です。
例えば物理学では、速度や加速度、運動量、エネルギーなど、一見するとそれぞれ別々に見える概念が、実際には互いに強く結びついています。ある一つの基本的な法則や定義を理解することで、そこから数多くの結果を導き出すことができます。
単に公式を一つ覚えることで一つの問題が解けるのではなく、一つの考え方を理解することで、それまで別々に見えていた多くの現象が一つにつながっていく。これは、数学や物理学の大きな魅力の一つだと思います。
また、科学には知識同士のつながりが非常に強いという特徴もあります。
現在では一般的に、物理学を本格的に学ぶ前に数学を学びます。その際、「この定理や公式を一体何に使うのだろう」と疑問に思ったことがある方も少なくないのではないでしょうか。
しかし、そのときには用途が分からなかった知識が、後になって物理学を学ぶ中で突然登場することがあります。以前学んだ数学の知識が、まるで伏線回収のように別の分野で使われる瞬間があります。
この感覚は、私にとって非常に面白いものです。
例えば、中世の歴史が好きな人や、中国の古代の書物が好きな人であれば、街中で偶然それらに関係するものを見つけたとき、多少なりとも興奮するのではないでしょうか。
それと同じように、私も街中で数式や数学記号を不意に見かけると、たとえ非常に簡単なものであっても少し嬉しくなります。
その延長で、私が現在最も行ってみたい国の一つがギリシャです。
理由は非常に単純で、街中にギリシャ文字があふれていると聞いたからです。普段は物理定数や数学上の記号として目にすることの多いα、β、γ、θ、λなどの文字が、実際には日常的な文字として無数に使われている。その光景を想像するだけでも高揚します。
もちろん、ギリシャ文字そのものは数学や物理学のために存在しているわけではありません。しかし、私にとってそれらの文字には、これまで学んできた数多くの知識が結びついています。
この感覚もまた、知識を得たことで初めて生まれたものだと思います。
次に、科学を学ぶ中で得られた「思考方法」について書いてみます。
高校数学で学ぶ代表的な証明方法には、対偶、背理法、数学的帰納法などがあります。これらは数学の問題を解くためだけのものに思えるかもしれませんが、案外日常生活でも役に立ちます。
例えば私は、文系科目のレポートを書く際にも、背理法に近い考え方を使うことがあります。ある主張について考える際に、その反対を仮定するとどのような矛盾が生じるのかを考えたり、ある結論を導くために必要な条件を一つずつ整理したりします。
何かについて議論するときにも、私の頭の中では、無意識のうちに数学の証明を行うような形で考えていることがあります。
数学や物理学で学んだものは、単なる公式や知識だけではありません。どのように考えれば答えに近づけるのか、どのようにすれば自分の考えが正しいと言えるのかという、思考そのものにも大きく影響していると感じています。
そして、もう一つ、私が科学を学ぶ中で身につけようとしている重要な思考法があります。
それが、「前提を疑う」という考え方です。
これについては、次の章で詳しく書かせていただきます。
2章 座右の銘
私の座右の銘は、「定義に忠実に」です。
これは、何か問題に直面した際に、目の前の情報や当たり前だと思っている前提を一度見直し、「そもそも何が定義されているのか」「本当にその前提は正しいのか」と考えることを習慣づける、という意味です。
私はまだ人生経験も浅く、判断に迷う場面に数多く直面してきたわけではありません。また、多くの場合は、目の前の情報を整理し、論理的に考えることで十分に答えを導くことができます。しかし、新しいアイデアを生み出したり、誰かを説得したりするときには、既存の前提そのものを疑うという行為が大きな力を発揮すると考えています。
もっとも、私自身もこの思考法を完全に身につけられているわけではなく、現在も勉強中です。ここでは、私がなぜこのような考え方を意識するようになったのか、そのきっかけとなったエピソードを紹介させていただきます。
「定義に忠実に」という言葉は、私が受験時代に最もお世話になった先生から教わった言葉です。同時に、他の先生方や同級生との関わりの中で学んできた考え方を、自分なりに要約した言葉でもあります。
物理学や数学を勉強していると、どうしても解法の発想が浮かばない瞬間があります。そのようなときに「定義に忠実に」と考えるだけで、突破口が見つかることがあります。ここでは、物理学と数学から一つずつ簡単な例を挙げます。
物理学で典型的なのが、「束縛条件」です。例えば、複数の重りが一本の紐でつながれている問題を考えます。運動方程式を立てても未知数に対して式が一本足りず、解けないことがあります。その際に必要となる最後の一本は、新しい物理法則ではなく、「一本の紐の長さは一定である」という、一見すると当然の条件であることがあります。複雑な式を探すのではなく、問題の設定そのものに立ち返ることで答えに近づける例です。
数学では、図形の問題が分かりやすい例です。座標系に置かれた図形に関する問題を見ると、座標やベクトルを用いて計算することをまず考えがちです。しかし、図形そのものの性質に立ち返って幾何学的に考えることで、複雑な計算をほとんど行わずに答えを導ける場合があります。「座標が与えられているから座標計算をする」と決めつけるのではなく、「そもそも何を求める問題なのか」と考え直すことが重要になります。
このように、目の前の問題を既存の方法だけで処理しようとするのではなく、一度定義や前提まで立ち返って考えることを、私は大切にしています。1章でお話しした私の思考法を支えているものの一つが、この「定義に忠実に」という考え方です。
3章 理系の考え方
私は、「論理的に正しいものが正しい」と考えています。
この考えについては以前の部員日誌でも書かせていただきましたが、少し補足しておきたいことがあります。私は、「論理こそが絶対的に正しい」と信じているから、この考え方を採用しているわけではありません。現時点では、論理的に正しいとされることを正しいと考えるのが最適だと判断しているから、そうしているだけです。もし今後、それを超えるより良い考え方に出会えば、私はそちらに改めるつもりです。
実は、この姿勢は理系の学問、特に物理学に対する考え方と近しいものがあります。
科学において、現在正しいとされている理論が、絶対的な真理であると保証されているわけではありません。どれほど技術が発展し、研究が進んだとしても、私たちは真理そのものに到達したと断言することはできません。真理に限りなく近づくことはできても、完全にたどり着いたことを確かめる術はない。このような考え方を、私は「真理の漸近線」と捉えています。
理系的な言い方をすれば、科学的な理論は常に「反証可能性」を孕んでいるということです。
そのため物理学では、現時点で観測される現象を最もうまく説明できる理論や法則を採用します。物理学者はそれらを前提として研究を進めますが、それが未来永劫絶対に正しいと信じているわけではありません。既存の理論では説明できない現象が発見され、それをさらにうまく説明できる理論が現れれば、そちらへと考えを改めていきます。
ここで重要になるのが、実験や観測によって得られる事実です。
例えば、前置きでも触れた「光速度不変の原理」は、私たちの日常的な直感には反しています。走っている車を追いかければ相対的にその車は遅く見えるのだから、光を追いかければ光も遅く見えるはずだ、と考える方が直感的には自然です。
しかし、実際にはそうなりません。
実験や観測を重ねても、真空中の光の速度は観測者の運動によらず一定であるという結果が得られます。そこで、実験結果がおかしいと考えるのではなく、「自分たちが当然だと思っていた前提の方が間違っているのではないか」と考えるわけです。
直感と事実が食い違ったとき、直感に合わせて事実を曲げるのではなく、直感の方を疑う。この姿勢は、2章で書いた「前提を疑う」という考え方にも通じています。
そして、この章の最後に、私の考え方について一つだけ、誤解されているように感じる点について書かせていただきます。
私は、「感情を無視し、常に最も効率的なものを選択する人間」だと思われていることが少なからずあるように感じます。しかし、それは断じて違います。
私は、感情を無視しているわけではありません。
むしろ、感情もまた論理の中で語ることができると考えています。
人間が何かを選択するとき、「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「嫌だ」といった感情は、当然その判断を構成する要素になります。効率だけを評価基準にするのであれば感情は邪魔に見えるかもしれません。しかし、人間にとって何が最善なのかを考えるのであれば、感情を無視することの方がむしろ非論理的です。
私にとって論理的に考えるということは、感情を排除することではありません。感情も含めたあらゆる要素を考慮したうえで、自分なりに最も妥当だと思える結論を導くことです。
そして、その結論でさえ絶対に正しいとは考えない。
より良い考え方や、自分が見落としていた事実に出会えば、それまでの考えを改める。この姿勢こそが、私が理系科目から学んだ考え方の中でも、特に大切にしているものの一つです。
4章 科学の欠点
科学の良いところだけを書いても実態に即していないため、ここでは欠点をいくつか挙げてみます。
1つ目は、基礎が難しい一方で、応用は比較的簡単であるという点です。これは特に物理学に当てはまることですが、ある式を本質的に理解するためには、大抵の場合かなりの時間を要します。しかし、一度その式を理解してしまえば、それを用いて既存の問題を解くこと自体は、ある程度慣れによってこなせるようになります。つまり、科学は面白さを実感できる段階に至るまでのハードルが高く、挫折しやすい学問であるといえます。そのため、科学を面白いと思えるようになるまでには、相応の時間がかかりやすいです。
2つ目は、学べば学ぶほど苦しいと感じる時間が増えていくという点です。大抵の学生は、生涯をかけても現代科学の1%にすら触れることができないと思います。学べば学ぶほど興味深い分野や問題は増えていきますが、同時に、自分がいかに何も知らず、何もできないのかを実感する機会も増えていきます。また、歴史上の天才と呼ばれる人々の業績について深く知るほど、彼らがいかに並外れた才能を持っていたのかを実感し、自分は理系に向いていないのではないかと感じることも度々あります。現に私自身、可能であるならば研究者になりたいと思っています。しかし、意味のある研究を残せる研究者にはなれないという確信に近いものがあるため、研究者になることは諦めています。
このように、科学を学ぶことによって興味深い事柄に数多く触れ、知識を増やすことができる一方で、自分の無知や無力さを認識する機会も増えていきます。知ることがそのまま幸福につながるとは限らず、むしろ知れば知るほど、自分には到底届かないものの存在まで見えるようになります。この点において、科学には、学べば学ぶほど面白くなると同時に、学べば学ぶほど苦しくなるという、一種の皮肉な性質があるように思います。
5章 科学の面白さ
ここでは、科学の面白さを具体例をいくつか用いることで伝えていきたいと思います。
皆さんは科学者をどの程度知っているでしょうか。偉大な科学者として有名なのは、ニュートン、フェルマー、オイラーなどでしょうか。ここでは、ラマヌジャンという人物が発見した公式の1つを紹介します。
円周率π(パイ/pi)が無理数であることは有名でしょう。念のため、無理数とは何かを端的に説明しておきます。無理数とは、有理数ではない実数のことです。そして有理数とは、整数同士の分数として表すことのできる数を指します。
これまで、多くの数学者がπについて研究してきました。その中でも、私が特に感激したものの1つを紹介します。ラマヌジャンは、1/πについて以下の等式を発見しました。

この式の異常な点は、大きく2つあります。
1つ目は、そもそもこの式を「思いついた」という点です。既に知られている式について、少し異なる式変形や解法を思いつくだけでも、実際にやってみると想像以上に難しいものです。それにもかかわらず、このような一見するとπとの関係すら分からないような式にたどり着いたことは、私には到底理解できません。この式を思いつくことができるのは、もはや異常者としか表現できないように思います。
2つ目は、その収束の異常なまでの速さです。この級数は、計算する項を1つ増やすだけで、πの正しい桁がおよそ8桁ずつ増えていきます。高校受験や大学受験では、正多角形を用いて円周率を近似する方法を目にすることがあります。しかし、そのような幾何学的な近似と比較すると、この公式がいかに凄まじい速さでπに近づいていくのかが分かります。たった数項を計算するだけで、πを極めて高い精度で求めることができるのです。
円周率については、他にも様々な数学者が長年研究しており、大変面白い結果が数多く存在します。少しでも興味を持っていただけたのであれば、ぜひ「ガウス積分」と調べてみてください。私がこれまで出会った積分の中でも、特に好きなものの1つです。
次に、私が面白いと感じた定理を紹介します。留数定理です。文系を専攻した方でも、名前だけは聞いたことがあるという方もいるかもしれません。私は複素関数を勉強していた際、早くこの定理を知りたいと思い、それを楽しみに勉強を進めていました。
留数定理の面白さを、正確さを多少犠牲にして直感的に説明するならば、「ある箱の周りの情報を調べることで、その中にある特別な点についての情報が得られる」というものです。複素関数を順番に学んでいけば、この定理が成り立つこと自体は、式を追うことである程度理解できます。しかし、改めてその式が意味していることを考えてみると、非常に不思議です。境界上で積分をしているだけなのに、その内部に存在する点についての情報が得られるのです。
このように、数学や物理では、ひたすら論理や計算を積み重ねていった結果、いつの間にか直感からは到底予想できないような結論にたどり着くことがあります。私は、これこそが科学の最大の面白さの1つだと思っています。
物理学にも似た例があります。例えば、マクスウェル方程式です。電気と磁気について記述した方程式を組み合わせていくと、そこから波を表す方程式が現れ、その伝播速度を計算すると光速度と一致します。つまり、電気と磁気について考えていたはずなのに、その先に「光は電磁波である」という驚くべき結論が現れるのです。
最初からその結論を目指していたわけではないにもかかわらず、既に分かっている事実を論理的に積み重ねていくと、予想もしなかった世界が見えてくる。この瞬間こそ、私が科学を学んでいて最も面白いと感じる瞬間の1つです。興味を持った方は、ぜひ「マクスウェル方程式 光速度導出」と調べてみてください。
第6章 最近興味深いと感じたこと
最後に、ここ最近で私が特に興味深いと感じた科学の話を紹介します。それは、「人間は自分自身の死を経験できないのではないか」という考え方です。
量子力学には、「多世界解釈」と呼ばれる解釈があります。かなり単純化して説明すると、ある出来事について複数の結果があり得るとき、そのうち1つだけが実現するのではなく、それぞれの結果が異なる世界で実現すると考えるものです。
これを身近な例に置き換えて考えてみます。例えば、今日外食するか否かを決めるとします。選択する前には、外食する可能性と外食しない可能性の両方があります。多世界解釈のイメージに当てはめれば、外食する世界と外食しない世界の両方が存在することになります。
ここで、死について考えてみます。仮に、ある出来事によって生き残る可能性と死ぬ可能性の両方が存在するとします。世界がそれぞれの結果に分岐するのであれば、生き残った自分が存在する世界も存在することになります。そして、自分自身が何かを経験するためには、当然ながらその世界で自分が生きていなければなりません。そのため、主観的には「自分が生き残った世界」しか経験できないのではないか、という発想が生まれます。
このような考え方は「量子不死」と呼ばれることがあります。もちろん、これは人間が本当に不死であることを科学的に証明した理論ではありません。多世界解釈から派生した思考実験の1つであり、そもそも多世界解釈自体も量子力学に対する解釈の1つです。そのため、「量子力学によって人間の不死が証明されている」という話ではありません。
それでも、私はこの考え方を非常に面白いと感じました。周囲の人の死を経験することはあっても、自分自身の「死んだ後」を自分が経験することはできません。では、自分自身の主観から見た世界は最終的にどうなるのでしょうか。また、生き残る可能性が限りなく小さくなっていった場合、この考え方では何が起こるのでしょうか。
もちろん、現時点で答えを出せる問題ではありません。しかし、普段は当然のものとして受け入れている「死」という概念について、物理学を出発点として全く異なる見方ができること自体が、私には非常に興味深く感じられます。
この考え方を知ってから、私は死後について考える際、このような可能性もあるのではないかと考えるようになりました。正しいかどうかは分かりません。それでも、考えれば考えるほど新たな疑問が生まれてくるという点で、ここ最近知った中でも特に面白い考え方の1つです。
最後に
ここまでいくつか科学に関する話を紹介してきましたが、他にも私が面白いと感じるものは数え切れないほどあります。これ以上書くとさらに長くなってしまうため詳しい説明は省きますが、少しでも科学に興味を持っていただけた方は、ぜひ次のようなキーワードも調べてみてください。
・マクスウェルの悪魔
・シュレーディンガーの猫
・フェルマーの最終定理
どれも名前だけを見ると何のことか分からないかもしれませんが、それぞれ非常に興味深い話につながっています。ここまで読んでくださった方が、この中の一つだけでも調べてみようと思ってくだされば、今回このテーマで書いた甲斐があったように思います。
最後の部分だけでも目を通してくださった方、ありがとうございます。そして、もしここまで全文を読んでくださった方がおられましたら、感謝してもしきれません。拙い文章ではありましたが、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

