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2026

手段と目的

平素よりお世話になっております。経済学部2年の岩﨑です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

皆様は、自分の信念をどこまで貫くことができるでしょうか。もし、自らの命を懸けることでしか理想を実現できないとしたら、それでも迷わずその道を選べるでしょうか。

今回の部員日誌では、ジョン・ブラウンという人物について書こうと思います。彼は19世紀アメリカの奴隷制度廃止運動に身を投じ、最終的には自らの信念のために命を落とした人物です。まず、彼がどのような人物だったのかを紹介します。

ジョン・ブラウンは1800年、アメリカのコネティカット州に生まれました。父親が奴隷制度に強く反対していたこともあり、幼い頃から奴隷制度を悪と考える環境で育ちました。また、少年時代に黒人奴隷が虐待される姿を目の当たりにした経験も、後の彼の思想に大きな影響を与えたとされています。

成人後はさまざまな仕事に就く一方で、逃亡奴隷の支援など、奴隷制度廃止運動にも関わるようになります。そして次第に、奴隷制度は言論や説得だけではなくならないと考え、武力による解決を志向するようになりました。

1850年代、カンザスでは奴隷制度を認めるかどうかをめぐって、賛成派と反対派の武力衝突が続いていました。ブラウンも反奴隷制側としてこの争いに参加し、1856年には奴隷制支持派の男性5人を殺害しました。彼の奴隷制度廃止への姿勢は、この頃からさらに急進的なものになっていきます。

そして1859年、ブラウンは仲間とともにバージニア州ハーパーズ・フェリーにある連邦政府の武器庫を襲撃しました。武器を奪って奴隷たちに配り、武装蜂起を引き起こすことが目的でした。しかし計画は失敗し、ブラウンは逮捕され、同年12月に処刑されました。

しかし、ブラウンには処刑を免れる可能性もありました。彼の協力者たちが脱獄を計画していたものの、ブラウンはそれを拒んだとされています。彼は、自らが逃げ延びるよりも、奴隷制度に反対する者として処刑されることの方が、この問題を世に訴えるうえで大きな意味を持つと考えていたのでしょう。自らの死によってアメリカ社会に奴隷制度の矛盾を突きつけようとしたとも考えられます。

彼は処刑を目前に、次のような言葉を残しています。

「私、ジョン・ブラウンは今、この汚れた土地の罪は、血によってのみ贖われるのだと確信している。私はこれまで、大した流血もなしにそれが達成できると自分を欺いていたが、今やそれは間違いだったと分かった。」

そして実際に、彼の処刑から約1年半後の1861年、南北戦争が勃発しました。4年間にわたる戦争で多くの血が流れ、その過程で奴隷解放宣言が出され、最終的には憲法修正第13条によってアメリカにおける奴隷制度は廃止されました。

私は、現代に生きる私たちは、ともすれば「生きること」そのものを目的にしてしまっているように感じます。もちろん、ブラウンのように自分の命を投げ打ってまで何かを達成すべきだと言いたいわけではありません。また、彼が目的のために暴力を用いたことまで肯定するつもりもありません。

それでも、自分は何のために生きるのかという問いを持つことには、大きな意味があると思います。私は、生きることそれ自体が最終的な目的なのではなく、自分の信念を貫き、人生で成し遂げたいことを実現するための手段でもあると考えています。

ただ明日を迎えるためだけに食事をし、お金を稼ぎ、同じ毎日を繰り返すのではなく、自分が人生を通じて何を成し遂げたいのかを考え、その目的に向かって生きる。そのような生き方こそが、人生をより充実したものにするのではないでしょうか。


P.S.

ブラウンの死はアメリカ全土に広く知られ、彼を題材にした「ジョン・ブラウンの屍」という歌が南北戦争期に北軍兵士の間で広く歌われるようになりました。その旋律にジュリア・ウォード・ハウが新たな歌詞を付けたものが、現在まで知られる「リパブリック讃歌」です。ちなみに、かの有名なヨドバシカメラのテーマソングにも、同じ旋律が使われています。



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