平素よりお世話になっております。法学部一年の真田優誠です。桜が散り、緑に姿を変える今日このごろですが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。

最近ふと、桜はいつ「見頃が終わった」と言えるのだろうか、という疑問を抱きました。満開の姿こそ華やかですが、散り際にこそ美しさを見いだす人も多くいます。慶應に縁の深いイチョウもまた、葉が落ちて地面一面を黄金色に染める頃が最も見どころとされ、多くの人が写真を撮りに訪れます。高校生の頃、その季節になるたび、私は「人はどこまでをそのものの生として捉えるのだろう」と考えることがありました。

それを読み解こうとすると、自然と人間の生、すなわち人生の終わりである「死」とはどこを指すのか、という問いに行き着きます。現代医学では、いわゆる三徴候として、自発呼吸の停止、心拍の停止、瞳孔の散大が確認された場合に死亡と扱われます。

では、脳死とは何なのでしょうか。脳死という概念が広く語られるようになった背景には、臓器移植医療の発展があります。移植は臓器の状態が良いうちに行うことが、移植を受ける側の健康やその後の生存率につながります。そのため、心臓が停止する前であっても、脳の機能が不可逆的に失われた状態をどのように捉えるかが重要になり、「脳死」という考え方が生まれました。

ここから私は、死というものを単純に心臓が動いているかどうかだけで判断する考え方にはあまり賛成できません。命とは臓器一つの働きだけで成り立つものではなく、その人が積み重ねてきた記憶や関係、人としての存在全体を含んでいるものだと感じるからです。私自身、祖父が亡くなった際、心臓が止まり身体が冷たくなっていくのを感じたときに、初めて相手の死を実感しました。けれど同時に、祖父との思い出や言葉は今も自分の中に残り続けています。

ディズニーのリメンバー・ミーや One Piece では、肉体の死とは別に、記憶の中から存在が薄れていくことへの寂しさが描かれています。私はその表現に共感します。人は亡くなった瞬間にいなくなるのではなく、残された人の会話や思い出の中で、少しずつ形を変えながら存在し続けるのだと思います。生前に出会う人々との時間、去年見た桜、何気なく通り過ぎる景色一つひとつにも、自分なりの物語を見つけていたいと感じます。思い出として語れるものが増えるほど、その瞬間はただ過ぎ去るだけではなく、自分の中で生き続けるからです。

桜もまた、今年散ってしまえば終わりなのではなく、来年見たときに「去年はこうだった」と思い返されることで、また新しい意味を持ちます。人の生も景色も、記憶され語られる限り、完全に終わることはないのかもしれません。