平素よりお世話になっております。

薬学部3年の海部花です。

いつのまにかマネージャーの後輩たちがすっかり頼もしくなって、ふと感慨深く思うこの頃です。

いつも癒しをありがとう!

 

さて今回は少し真面目に書いてみます。
先日の優誠の部員日誌で、「努力がもたらすのは幸か不幸か」というような話題がありました。
一定以上の努力は自分の限界を知らしめるから不幸の兆しだと思う、と城武が言い、それに対して、その限界を越える試みの中に本当の喜びがある、と優誠が言ったそうです。そしてそのままさらに意見を交換し合ったそう。
非常に微笑ましく、面白いお話だなぁと思いながら読ませてもらいました。

それぞれそう考えるに至るまで、どんな経緯があったんだろう?
彼らがこの先ぶつかるであろう壁は、彼らの考えに果たしてどんな影響を与えるのかな?

いろいろな考えが浮かびました。
きっとその時、彼らはお互いの存在を思い出して自身を鼓舞するだろうな、とも思います。

 

 

私自身は、努力によってかえって自分の限界を突きつけられるという“壁”の痛みに、ひどく覚えがありました。城武がそう思うに至ったその何かの契機を思うと胸が苦しくなります。そしてその痛みも成長への希望と捉える優誠のタフネスもとても魅力的です。

 

 

私は努力とは知ることであると思います。
何かを極めようとするほど、自ずとそれに関する知識が必要になり、知識があるほど極める道が楽しいものになるからです。

康志郎がよく柔道の技解説をしてくれます。それを聞きながら見る試合は面白さが一味も二味も違います。こんなテクニックが潜んでいたのか、と、知るほどに柔道は面白い競技だと思います。

私の場合、かつて一生懸命に取り組んだ音楽に対して、今もこんなことを思います。
「ここの音程が乙だな」「ここで音量を敢えて抑えるなんて粋だな」などなど…
それを考えることはとても楽しいです。
しかし一方で、琴線に触れるような素晴らしい音楽を聴くとき、その大きな楽しみを以ても抑えきれないやるせなさが襲ってきます。
それが素晴らしければ素晴らしいほど、自分とそのステージの距離が、それは到底辿り着けないほど遥かに離れていることを思い知るからです。
拍手を送りながら、羨ましくて仕方がなくなります。

 

石村や山中は試合に負けると、声をかけられないくらい悔しそうにしています。自問自答しているのがひしひしと伝わってきます。
「勝ちたい」と自分に期待をかける時、負けた時の反動はより大きい苦になります。
前を向ける日ばかりじゃないだろうし、負けの怖さも弱気な気持ちもきっといろんな気持ちがあるんだと思います。
それでも、その苦味を幼い頃から何度も乗り越え続けて、毎試合臆することなく、勝ちへと貪欲に挑むことは並の精神力ではできないことだと思います。
めちゃくちゃ強いと思います。

 

努力するほど知り、知るほど楽しい。
知るほど目標の遠さを知る。

 

ただひとつだけ思うことは、皆がこれからもそれを好きだと言えますように、ということです。
たとえ挫折したとして、全く嫌いになるには皆知りすぎていると思うからです。
そのことはきっと、優誠の言葉を借りれば、幸せの希望なのだと思っています。

 

 

成功していても、挫折していても、何周か回った後で、やっぱり好きだと思っていて欲しいな、と思いました。
あとはやっぱり、何よりも笑ってて欲しいです。

そのために今何ができるかなー

 

おわり