平素よりお世話になっております。法学部一年の真田と申します。つい先日まで寒暖の差に戸惑っていたのが嘘のように、連日30℃を超える日々が続いており、気候の急激な変化に苛立ちを覚えている今日この頃ですが、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
現在この文章を執筆しているのは2025年6月28日、午後10時30分。ご存知の通り、本日と明日にかけて全国学生柔道大会が開催されております。東京都学生大会を終えたのがつい先日のことのように感じられる中、時の流れの速さをあらためて痛感しております。
さて、今回私が綴らせていただくのは、「努力と幸福のあいだにある壁」というテーマについてです。語らうというテーマのため本日の執筆は対話口調でお届けします。拙い文章ですがお付き合いください。
私は最近、寮で同部屋の理工学部一年・城武と、就寝前によく人生観や価値観について語り合う機会を得ています。深夜の静けさの中、互いの考えを率直に述べ合うその時間は、私にとって非常に有意義なものとなっています。
ある晩、城武が唐突に口にした言葉が、私の思考を大きく刺激しました。
「ある一定以上の努力は、かえって人を不幸にする気がするんだよね。」
思いがけない発言に、私は思わず聞き返しました。「どういう意味?」
彼は少し間を置いて、こう続けました。
「勉強にしても、柔道にしても、頑張れば頑張るほど、越えられない壁や、さらに上の存在が見えてくる。そのたびに、自分の限界とか無力さを思い知らされるんだ。」
私はその言葉に、強い共感と同時に、一つの違和感を覚えました。
「なるほど、確かにその通りかもしれない」と一度は納得しつつも、私はこう問い返しました。
「でも、それは本当に“不幸”なんだろうか? むしろ、努力によって見えてくる壁というのは、“幸せの前提”なのではないかと思うんだけど。」
城武は少し目を細め、「それはどういうこと?」と促してきました。
私は静かに言葉を続けました。
「努力を重ねた結果として壁が見えるというのは、それだけ自分が高い場所まで登ってきた証拠だと思うんだ。努力をしなければ、そもそもその壁に出会うことすらない。だからその“壁”は、成長の痕跡であり、挑戦することができるという希望の表れでもあると思う。」
さらに私はこう付け加えました。
「そして、その壁を越えようとする過程で感じる苦悩や葛藤、あるいは仲間との分かち合いの中にこそ、本当の喜びや確かな幸福が存在しているのではないかと。安定した毎日だけでは得られない達成感や自己肯定感は、まさにその先にしかない。」
しばらくの沈黙の後、城武は「たしかに……そういう見方もあるな」と一言つぶやきました。私たちは互いに視線を交わすこともなく、天井を見上げたまま思索を続けました。
努力の先に見える壁を、「不幸の兆し」として捉えるのか、「より深い人生への扉」と捉えるのか。その選択は、結局のところ、私が敬愛してやまない、かの恋愛マスター宗広先輩がおっしゃっていたように幸せとは、私たち自身の意志と視座に委ねられているのかもしれないそう思える夜でした。
このような話をするのが好きな性分故、様々な意見を聞けたらなと思いますので暇があったら話しましょう。
ではまた