ご無沙汰しております、総合政策学部3年の島田智宏です。

去年の7月から先月までの約1年間、カナダのバンクーバーへ交換留学をさせていただいておりました。改めまして、今後も変わらぬご指導ご鞭撻の程、何卒よろしくお願いいたします。

さて、帰国後初の部員日誌ということで、何を書くか迷いました。カナダで味わった様々な国際体験、直面した困難や自分の将来についての話など、思いつくことは多々あります。しかしながら、ふと立ち戻って考えてみると、これは柔道部の部員日誌です。今回は約1年のブランクを経て私が改めて感じた慶應柔道部の良さについて述べてみたいと思います。

1:多様性

「多様性」という言葉は多くの人が聞いたことがあるでしょう。個人的には、中学2年生あたりで突如として広まったような気がしています。授業内のグループ発表なんかではとりあえず「多様性」と「異文化交流」の文言を入れておけばOkみたいな風潮がありましたし、大学へ入学して4年が経過しましたが、それは今だに通用しているように思えます。しかし、多様性という言葉は、その意味に反して極めて限定的な言葉です。ネットで意味を検索してみると「色々な種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。」とあります。恐らく、殆どの人はこれと同様の意味で理解しているはずです。しかし、人間社会に当てはめてみると、この言葉がいかに厄介かが分かるでしょう。例えば「人種」や「性別」。その成体としてパターンは人権問題や男女の平等性等々、幾つもあります。ですが、我々人間を構成する要素はMECEで考えるともっと多い。国籍、年齢、性別(生物学的な性+性自認)、身体状態、家庭環境、受けてきた教育、国際経験、肌の色、好きな食べ物、育った環境、、、視点を変えたり拡大・縮小することで人の持つ要素というのは無限に展開されることが分かるはずです。とすれば、「無数にある諸側面を複合的に有する一個人の集合体=組織・社会」と定義される時、一般的に語られてる「多様性」はその実極めて限定的に切り取られたもののように思えてきます。

なんて学者気取りの分析をしてみましたが、話を戻すと、慶應柔道部は実に色々な特色を持った人材が集まっているということです。普通、組織には似通った思考やバックグラウンドを持った人々が集まります(例えば、海外の有名大学に所属する学生のほとんどは富裕層の出自であり、同じような経験を持っている)が、うちは全員が違った価値観を持ち共存している不思議な集団です。前述の多様性が目に見えない部分で溢れています。良い意味で癖が強い。実は、一つ上の世代が抜けてしまったためにこうした癖が少なくなり面白味が無くなるのではないかと密かに不安に思っていたのですが、そんな不安はどこ吹く風。新たな癖の芽が芽吹いておりました。

2:繋がり

僕は慶應柔道部に入部して得た全ての経験、そして出会えた全ての人をとても愛おしく思います。怪我などの困難は多々ありましたが、何よりも心の部分で、慶應柔道部は僕の中で欠かせない場になっています。これは、カナダに行き、より一層強く認識することができました。「井の中の蛙大海を知らず。されど空の青さを知る」という言葉があります。狭い世界に囚われていては広い世界を知ることはできないという意味です。が、広い世界を知ることが幸せかのように諭すこの解釈はあまり好きではありません。僕がカナダ留学を経験して分かったのは、「今そこにいる限り、その素晴らしさを知ることはない。」ということです。つまり、今自分が置かれている環境の素晴らしさを知るには、その環境から出る必要があるということです。いくら蛙だって、井戸くらい登れるでしょう。そもそも、井の中が蛙にとっての全世界なのだとすれば、大海を知る必要はありません。嵐にでも吹き飛ばされてたまたま井戸から出てしまった蛙の結果論に過ぎない、とも解釈できます。僕は、上述した解釈において、慶應柔道部で恵んでいただいた人との繋がりの素晴らしさを体感した訳なのですが、その上で実際に部員の皆と一緒にいると以前よりも「ああ幸せだな。」としみじみ思います。

長々と書いてしまったので、最後に僕がカナダで始めた新たなる習慣について書きます。

それは・瞑想・コールドシャワー・ログの3つです。つい5日前、新たにモーニングページというのを始めたのですが、その効果たるや!この習慣を約5ヶ月間継続してみると、自己変容や内省力の強化が著しく、自分でも興奮してしまいます。後輩(今の学年は同じ)の山元くんがコールドシャワーを始めたそうで、とても嬉しいです。やはり彼は僕のソウルメイトだったんですね。ローイングについて語り合える日もそう遠くないと確信いたしました。

今回はここまで。

ご精読ありがとうございました。