平素よりお世話になっております。理工学部一年の城武卓頼です。
共通テストも終わり、各地で受験が山場を迎えておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私は期末試験の学習に励みつつ、ふと受験時代を思い返し、当時の心境に思いを巡らせております。受験時代の話もぜひ書き記したいところですが、それはまた別の機会に譲りたいと思います。さて、今回の部員日誌は、二つ前の続きのような内容となっております。
私はこれまで、感情よりも論理を重視して生きてきました。正確に言えば、「感情でさえも論理で説明できる」と考えてきました。しかし最近、私はある違和感を抱くようになりました。それは、「論理が通っていること」と「正しいこと」は必ずしも同じではないのではないか、という疑問です。
例えば討論では、基本的に筋が通っている方が勝つとされます。しかし現実には、同じ人が立場を変えるだけで、対立する両方の側を論理的に擁護し、相手を論破できてしまうことがあります。もし「正論が必ず正しい」のであれば、対極の二つの主張のうちどちらか一方だけが正しく、もう一方は間違っているはずです。しかし現実はそうなりません。この事実が、私に「正論は必ずしも正しいとは限らないのではないか」という疑念を抱かせました。
この疑問に至るきっかけとなったのが、前々回の部員日誌で私が示した「人が幸せになることは不可能である」という証明でした。私はそこで、「生きていることによって、良かったと感じる」という命題を出発点にし、その対偶を用いて議論を進めました。その結果、人は幸せにはなれないという結論に至りました。当時の私はこの証明に強い確信を持っていましたが、その後多くの意見をもらい、改めて検討したことで、この証明には反論と欠陥があることに気づきました。
まず一つ目の反論は「幸せの定義が曖昧すぎる」というものでした。ある方は、「幸せはもっと物理的に定義できるはずだ」と述べ、例えばドーパミンやセロトニンの分泌量で測ることを提案しました。しかし私は現在、この考えには賛成できません。第一に、ある出来事に対してその瞬間の神経伝達物質の分泌量を正確に測定することは、現在の技術では極めて困難です。さらに、仮にそれが可能だったとしても、「自分は幸せだったかどうか」は最終的に本人の主観的判断に依存します。つまり、物質量だけで幸せを定義することには本質的な意味がないと私は考えます。
二つ目の反論は、「生死の定義を変えれば証明は崩れる」というものでした。私は生物学的な生死を前提としていましたが、「心の生死」に置き換えれば私の証明は成立しない、という指摘です。これに対する私の考えは次の通りです。確かに定義を変えることは可能ですが、それは同時に変えないという選択も可能であることを意味します。したがって、この反論は私の証明を完全に否定しているわけではありません。
しかし、私の証明にはそれ以上に大きな欠陥がありました。対偶を用いて議論するためには、元の命題が「A ⇒ B」の形であり、AがBに含まれる(A ⊂ B)と考えられる必要があります。例えば「私は人間である」という命題なら、「人間」という集合の中に「私」が含まれていると考えられます。これは命題が偽の場合でも同様で、「私はロシア人である」という命題が偽でも、「ロシア人」の中に「私」がいると仮定して議論できます。しかし、「生きている ⇒ 良かったと感じる」という命題は、このような関係になっていません。つまり、この命題はそもそも対偶で扱える形になっておらず、矢印の向きが逆なのです。これが私の証明の決定的な欠陥でした。
このことを通して、私は重大なことに気づきました。論理は他人を説得するだけでなく、自分自身すら騙すことができる、ということです。実際、私は「幸せの不可能性」という結論に強く納得していました。しかし後から検証してみると、私は自分の直感や価値観に合う結論を、無意識のうちに論理で正当化していただけだったのかもしれません。私はこの経験を通じて、自分の無知さと、人をそして自分を騙すことの容易さを痛感しました。
この視点から考えると、非常に頭の良い人が宗教やカルトにはまってしまう理由も理解できる気がします。彼らは論理的思考力が高いため、自分の信念や生き方を否定できる人がほとんどいません。その結果、自分の偏見や価値観を客観的に見直すことが難しくなります。仮にそれに気づいたとしても、「自分は正しい」と感じたことを理論的に正当化してしまう。こうして、人は自分自身すら欺くことができるのだと思います。どんなに世間の価値観とかけ離れていても、その宗教や思想を論理的に肯定できてしまうのです。この気づきが、私がなぜ人間不信なのかを理解する一つの手がかりになりました。
以上を踏まえると、「論理が通っていること」は決して十分条件ではありません。だからといって、論理が無意味だとも思いません。チャーチルの言葉に次のものがあります。
“Democracy is the worst form of government, except for all those other forms that have been tried from time to time.”
(民主主義は最悪の政治形態だ。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば、だが。)
これにならって、私は次のように述べたいと思います。
私は、ある問題について論理的に論じることは最悪の手段だと考える。ただし、これまでに試みられてきたあらゆる論じ方を除けば。
つまり、論理は完全ではありません。しかし、他の手段と比較すれば、現時点で私たちが持つ最もましな道具なのだと思います。
長文になってしまいましたが、今回はこの辺で締めとさせていただきます。ご精読ありがとうございました。
