平素よりお世話になっております。理工学部一年の城武卓頼です。
早くも一年が終わろうとしておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。私はこの時期になると昨年の受験期を思い出し、あの頃の大変さの中にも意外と楽しさがあったなと感慨に耽っております。
さて、今回の部員日誌ですが、テーマを「幸せ」と「力を感じるメカニズム」のどちらにするか悩みましたが、先輩からの助言もあり、前者を選びました。
突然ですが、皆さんは幸せの定義は何だと思いますか。嬉しい瞬間、楽しい瞬間とは同値では無いですし、これらは必要十分ではないと思います。私が最もしっくりきた表現は「生きていて良かった瞬間」です。皆さんの幸せと感じた瞬間を思い出して下さい。私の表現に当てはまっているでしょうか。
私は人生の最大かつ最終的に達成すべき目標は当然お金や地位ではなく、自分自身が幸せになることであると思っております。お金や地位を持つことで幸せになることが多いという風潮のある世の中である為、手段と目的を取り違えている方が多少おります。しかし、様々な人々と関わっていくと、どんな境遇の方でも幸せをより多く感じている人の方が人生において成功を修めているように感じます。
しかし、悲しいことに私は自分自身が幸せにならないことを証明してしまいました。以下に詳細を記します。
初めに、死後は完全なる無、若しくは生前の事象は死後に完全に無関係であり、死後に感情は持たないこと及び、幸せの定義を「生きていてよかった瞬間」とすることを仮定します。では、証明します。
幸せを感じることはある瞬間に生きててよかったと感じたということである。
生きていたことによってよかったと感じることの対偶は悪かったと感じた時は死んでいたということになる。
ここで、仮定より、死後の世界は完全なる無、若しくは感情を抱かないという仮定に矛盾する。
以上より、幸せになることが不可能であることは示された。
これは二つの仮定がある為、全ての人には通用しない証明ですが、少なくともこの二つを仮定した時、正しい理論では無いでしょうか。
話は大きく変わりますが、私の持論で「知識が増えると不幸せになる」というものがあります。結論から述べると、幸せの最低水準が上がるということです。例えば、普段高級料理を食べる人、たまにしか食べない人、食べたことのない人、存在すら知らない人を比べた時に、高級料理を食べて、幸せを感じる度合いは料理について無知であればあるほど大きい傾向にあると思います。
私がここでお話ししたいのはアフリカの子供たちに支援してあげようとか教育をしてあげようといったことについてです。勘違いをされないために、申し上げておきますが、上記の活動を決して否定している訳ではなく、私の考え方のうちの一通りということをご承知おき下さい。文章量の都合上、具体例で、支援が送られた時のみお話しします。簡単のため、元々、彼らは海外からの支援はない状態であったとします。彼らはその状態が通常であった訳です。支援が送られたことによって、「支援がある状態」と「支援がない状態」の二つの知識を得ます。二つを相対的に比べると支援がない状態は不幸せです。通常であったことが不幸せになっています。また、ここで考えていただきたいのは、いま、彼らが感じる通常はどこなのでしょうか。単純に考えると二つの状態の中間でしょう。しかし、プロスペクト理論と損失回避というものがあります。これは簡単に言うと、不幸せの方が幸せより感じやすいということです。例えば、10,000円を手に入れることによる満足度と、10,000円を失うことによる苦痛を比べた場合、後者の方が精神的な衝撃や影響がはるかに大きいと感じます。とすると、標準の度合いは支援がある状態に近くなります。これを極限的に考えると、幸せと標準は同値になりそうです。つまり、人生の目標を幸せを感じることとすると支援をしない方が幸せを感じやすいということになります。
幸せについて大きく二つのことを述べてきましたが、私は幸せを感じてみたいです。どなたか私の理論を壊していただきたいです。切にお願いするとともに今回は閉めさせていただきます。ご精読感謝致します。
