失礼致します。甚だ僭越ながら自己紹介させて頂きます。私本年度慶應義塾體育會柔道部、並びに慶應義塾大学総合政策学部1年の山田 大志郎(やまだ だいしろう)と申します。以後宜しくお願い致します。
出身高校は慶應義塾高等学校、階級は81kg級です。出身地は千葉県船橋市でございます。中学まで地元で過ごし、現在全日本で活躍している川端倖明さんとは先輩後輩の関係で、さまざまなことを教わりました。また、高校からは鏑木先生のもとで寮生活を始め、厳しくも充実した高校生活を送り、今日まで至ります。
さて、今回は初回ということで、私の経歴について書かせて頂きます。私が柔道を始めたのは3歳の頃でした。両親が柔道家であり、その職業柄、幼い頃から自然と柔道に親しんできました。生まれたその日に講道館に入門し、その後道路公団(現 NEXCO)の実業団の監督もされていた森澤秀一先生の森澤塾に入塾して、柔道を学んできました。柔道が本当に楽しく、面白いこと、いかに素晴らしい武道であることを心に刻み込みました。今でも、亡き森澤先生に胸を張って生きられるような行動を心がけています。また、ここでできた友人は現在でも私が1番信頼しており、最も尊敬する親友になりました。本当に森澤先生には感謝してもしきれない大恩を受けました。
小学2年生の時、先生が稽古を見られる状態ではなくなり、かねてより先生と親交のあった錬心館岡野道場にお世話になりました。そこでは館長の岡野先生を初め、師範であり、現慶應義塾高校の鏑木文隆先生のご尊父である鏑木勇先生、成島先生など、様々な師に恵まれてここまでやってきました。仲間にも恵まれ、小学5、6年生の時には道場初の全国出場を果たしたり、関東マルちゃん杯で3位に入賞したりと側から見れば順風満帆とも言える幼少期を過ごしました。
しかし、その頃私は1つの大きな悩みを抱えておりました。それは、経験者の両親に比べてあまりにも弱かったことです。合同練習に行けば「あれが山田先生の息子さんですか?」と言われ、試合に出れば誰かしら知人が見ておりました。初めの頃はそんな両親が誇らしく、嬉しい気持ちでした。しかし、次第にその後の落胆の目に気づいてくると、悔しくて悲しくて柔道を続けるかどうか悩んだ時期もありました。これは、スポーツ界の2世が往々にしてぶつかる壁のようで、かの山下泰裕先生の息子さんが試合に出た時は山下という名前が呼ばれるだけで会場中が騒然としたそうです。流石に山下先生ほどの偉大な方と比べられるような人物ではありませんが、それでも少年時代の私は本気で悩んでいたのです。個人戦で結果を出せなかったことも、悩んだ理由のひとつであったと今となっては思います。
ただ、そんな時両親は一度も私に柔道を強要しませんでした。辛かったらやめていいとすら言っていました。これは今考えれば凄いことです。私であったらどう続けさせるかに頭を悩ませて、説得にかかると思います。そんな両親と、幼い頃森澤先生が柔道を「楽しい」ものだと教えてくださったことで、なんとかこの危機を乗り越えて、柔道を続けてこれたと考えております。中学では地元の中学校に進学しましたが、ひとつ上に川端倖明さんがおり、同期にも個人戦で関東2位になった友人もいました。そんな天才たちに囲まれながらも、不器用なりにがむしゃらに努力し続けた結果、中学3年時、千葉県の総合体育大会で2位という結果を掴むことに繋がったのだと思います。その結果、慶應義塾高等学校にご縁を頂き、今に至るというわけでございます。また高校時代につきましては、今回では語り尽くせないほど濃い3年間を送ってまいりましたので、別の機会にお話しさせていただければと考えております。
ここに書いた通り、私のこれまでの人生は、両親を始め、先生方や、先輩後輩など、人との良縁に恵まれてきた人生だったと思います。ここまで私が辿り着けたのも、決して私1人の力ではなく、様々な人の支えがあってのことだと感じております。また、その縁を引き寄せてくれたのはこの柔道という競技であり、また私は柔道に深く関わってきた人間ですから、それら全てに感謝を込めて、これからの人生を歩んでまいりたいと強く思います。
そして大学では、同期が10人を超え、また素晴らしい生活が幕を開けることにワクワクしております。先輩方が受け継いでこられた慶應義塾體育会柔道部に泥を塗ることのないよう、日々精進して参ります。
今後ともご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します。