こんにちは。入道隼人です。
残像。ざん‐ぞう〔‐ザウ〕
刺激がなくなった後になお残る、または再生する感覚。
残像とは何でしょう。車が猛スピードで前を通り過ぎ去った時にスローモーションで見える感覚。プロ野球選手がホームランを打った時にボールがスローモーションに見えた時。柔道で言えば私は大一番の試合で1本を決めた時に投げる瞬間がスローモーションに見えた。それも残像と言えるでしょう。
人生においての「残像」とは何でしょうか。嬉しかった事、怒った事、哀しかった事、楽しかった事、きつかった事、みんなで笑いあった事等、これまで生きてきた中で今の糧になっている事、又はふとした時に嫌な記憶が「再生」する事、つまり過去の思い出の事を「残像」と言うのでしょう。
急に残像について語り出してどうしたと思ったでしょうが、あるアーティストが「残像の愛し方」という曲を出していました。
そしてその人の解釈がとても考えさせられるなと思い残像について私も考えました。
その人は残像の解釈についてこう表していました。「”残像”とは、過去の思い出のこと。苦しかった思い出なんて全て否定したくなるが、それは自分の一部を否定することになる。かといって過去を全て受け入れるほど割り切れない。だから僕は、首根っこを掴んで離すもんかと憎んで、愛していく。これが僕なりの過去、”残像の愛し方”だ」
「残像の愛し方」人それぞれだと思います。私は残像そのものが私の人生だと思います。しかしながら、人生においての失敗、辛い経験、誰しもあると思います。そんな時人間は弱い生き物だから、そんな事は忘れてしまいたくなり、楽しい経験だけを残したい。そして、美化されてしまうと思います。しかしながらそれは成長に繋がらないし、それはその人そのものではなく、偽りの自分であると思います。そこで楽しい経験、成功したと思う経験は勝手に覚えていると思いますが、そんなのではなく辛い経験や失敗した経験そのものの首根っこを掴み憎み、愛していく。その行動自体が自らを成長させ、また自分自身の嫌なところも含め自分を愛すという事だと私は思います。
東京都学生柔道大会。負けたらそこで試合終了の試合が来月末に控えています。
これまでの残像を忘れること無く、昨年の敗北の首根っこを掴みチーム井口一丸となって勝利を掴みに行こうと思います。
よっしゃ