失礼致します。甚だ僭越ながら自己紹介させていただきます。私本年度慶應義塾体育会柔道部、並びに慶應義塾大学理工学部1年の城武卓頼(しろたけたかのり)と申します。以後よろしくお願い致します。階級は60kg級で、出身高校はラ・サール高校です。中学、高校共に鹿児島で男子だけの寮生活及び下宿生活を過ごしてきたため、横浜で共学の慶應義塾大学での生活に期待を膨らませています。一方で、環境のあまりの違いに驚愕する日々を過ごしております。

初めての投稿ということで、私の経歴について書かせていただきます。私は、埼玉県所沢市で誕生致しました。その後、府中市、中野区と引っ越しをし、年長の際に、今生活を送っている、埼玉県鶴ヶ島市に居住し始めました。小学生の初期から中盤にかけては、公文、水泳、剣道を習い、小学4年生頃から、塾に通い始めました。塾に通い始めてから、塾以外の習い事をやめ、中学受験をしました。結果、ラ・サール中学に入学することになりました。ラ・サールでは、全ての通信機器及びゲーム機が持ち込み禁止だったため、部活に励む学生が多かったように感じます。私は、剣道を幼少期していたことや、母が少し弓道をしていたため、剣道部若しくは弓道部に入部しようと考えておりました。そして、体験入部をし、弓道部に在籍しておりました。しかし、元来私は、全身を動かすスポーツが好きだったためか、弓道に飽きてしまいました。そこで、柔道部の友人に柔道を誘われ、中学1年生の1月頃に入部致しました。入った時期がかなりイレギュラーだったためか、体育で少しだけ柔道をかじっていたためか、私は、柔道部の練習に参加して2日目で乱取りを始めました。私はこの時まで、柔道は力は全く関係なく、技術だけのスポーツだと思っておりました。そのため、柔道が最も筋肉を必要とするスポーツの一種と知ったときは、喜びに満ちあふれておりました。中学2、3年生の頃は部活はコロナ禍の影響を大きく受け、試合に数回しか出場することができませんでした。このことにより、同期の柔道部には部活を休む若しくは辞める友人もおりました。私は、この頃試合に勝ちたいという気持ちは薄く、乱取りができれば十分だと思っていたため、コロナ禍の影響はあまり受けなかった記憶があります。また、この頃に肘を怪我して、最も得意であった背負い投げの練習がまともにできなくなりました。高校に入ってからは、ラ・サール柔道部にはあまり変化はありませんでしたが、対戦相手が中学生の頃より段違いに強くなりました。高校2年生の頃には副部長に就任し、私が最も重要視していた文武両道杯に出場することとなりました。私は、この試合で全力を出し、この試合後からは、殆ど背負い投げの練習をすることはできなくなってしまいました。高校3年生の春頃には引退試合があり、受験勉強もこの頃から始めました。引退試合では、直前に怪我をしたこともあり、惨敗してしまいました。受験勉強が佳境に入っていくにつれ、受験のモチベーションが下がってきました。そこで私を支えてくれたのは、柔道と理系科目です。私は、できる限りはやく柔道をしたかったため、浪人だけは絶対に避けようと必死で自分を奮い立たせておりました。結果は満足のいくものではありませんでしたが、柔道がやっとできるということで入部を楽しみにしておりました。

現在私は、強い先輩及び仲間たちと柔道を楽しんでおります。中学、高校では柔道が好きだから柔道をやるという学生が多くなく、少し物足りなさを感じておりましたが、慶應義塾大学の先輩や仲間たちは皆さんが柔道を好きでしているため、十分すぎるほど充実しております。また、実家が遠いため、六徳舎の一員にならせていただこうと思っております。

ここで、大学での柔道の目標を書かせていただきます。初めに、塾高生と肩を並べられるようにすることです。現在私は、彼らと同級生なのにもかかわらず、大きな実力差があります。4年間でこの差を埋めたいと思っております。そして、もう一つの目標は背負い投げができるようにすることです。今でも背負い投げをしようとすると肘に痛みを感じ、人を投げることなど到底不可能のため、4年間でどうにかしてこの問題を解決いたしたいと思っております。

拙い文章でありますが、ここまで読んで下さり、感謝の念に堪えません。

最後に、私はこの慶應義塾体育会柔道部でその名に恥じないように4年間精進し、邁進して参りますのでご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します。