日傘にハンディファンをもち、少しオシャレな大学生気取りをしている今日この頃です。暑さ対策はバッチリ!かと思いきや、日傘さしてても日焼け止めを塗るのがめんどくさく結局何もせずに家を出る。ずぼら大学生を極めています。

こんばんは。総合政策学部2年の坪根和海です。

全日本学生、東京都ジュニアと応援ありがとうございました。4年振りの大きな試合に緊張でした。あまり緊張しない方ではありましたが、かなりの緊張していたのか全日本学生の試合当日には39度を超える熱を出してしまい、そのまま試合に出場することになりました。試合前の体調管理すらできない自分がとても情けないです。

2つの試合を通じて、沢山の学びと悔しさを感じれたとてもいい経験になりました。この2つの大会での学びを東京都学生個人に繋げていけるように、夏休みを有意義に過ごしていきたいと思います。

さて、今日は坪根家で勝負に挑む。について話をさせていただきます。

私の家は、柔道1家です。生まれて間もない頃に柔道着を着させられ、物心着く頃には柔道の畳の上で遊んでいました。幼い頃のビデオを見返しても、1歳?2歳?にもならない頃から遊び半分ではありますが、受け身をして打ち込み的な動きをしているビデオがあり、驚きました。4歳の頃高い滑り台の上から落ちても、怪我ひとつなく笑っていたのは、神経が発達する前から受け身を覚えていたからなのでしょうか?

この事故のせいで、性格がかなり曲がったとか変わり者になったとか両親には散々な言われようです、、、

柔道1家となったのは私が5歳の頃。弟はまだ3歳でした。私が柔道を習いたいと言い出し、姉と弟は巻き添いくらった形ですかね?

柔道の話が出ない日はない。そのくらい柔道がなんだかんだで大好きな家族です。家の畳の部屋を柔道の畳に変えてしまうくらいですからね。

基本的に試合は両親2人とも見に来てくれます。父は少年柔道の監督として、母はビデオを観客席から撮りながら上から客観的に見た指示を出してくれます。お昼は必ず手作りのお弁当。どれだけ忙しくても母は試合の際必ずお弁当を作ってくれていました。他の人に比べるといつでも練習ができる環境があり、教えてくれる人がいる。本当に整った環境だったと思います。当時は毎回柔道の話をされ、試合内容が悪いと2時間の帰り道を正座で帰らされたり、嫌で嫌で仕方なかったこともありましたが、、、

小、中学生の試合は当たり前のように父と母が側にいてくれて適切な指示をくれて、

試合前は、相手の研究をとことん一緒にしてくれていました。全国大会はどれだけ遠くても、家族全員で応援に来てくれます。全国大会が年に一度の家族旅行のようなものです。半額商品に目がない母、日頃節約、節約と言いながらも、旅費などが多くかかるにも関わらず試合には必ず応援にきてくれる。有難いことです。

高校の頃は怪我でほとんど試合に出場できていませんでした。そのため父の指示を聞いて試合をすることもほぼありませんでした。大学はもう毎回試合に来てもらうのは遠いから4年生のラストの試合だけ見に来る。でいいからねとずっと言っていたにも関わらず、全日本学生団体では母が、東京都ジュニアでは父がわざわざ福岡から見に来てくれました。

来なくていいのに〜、、と言いつつも心の中では本当に嬉しかったです。特に父がそばにいてくれる試合は私の中で格別です。小学校の頃はずっと監督として、中学校の頃は外部コーチとしていつもセコンドにいてくれていたので。ジュニアの試合では上から懐かしい父の指示が聞こえていました。上を見ると小学生の頃から変わらないジェスチャーが見え、何故かきつくても父を見ると大丈夫。と強い気持ちをもって戦えるのです。最初で最後のジュニアの試合を父と一緒に戦えてとても嬉しかったです。

福岡から来てくれたのに、全日本ジュニア出場決められなくてごめんね。の気持ちが大きいですが何より試合がとても楽しかった。父には、昔から技のキレや身体の力はないけれど誰よりも負けん気だけは強い。気持ちだけは強いと言われていました。今思うと父がこの私の良さを作ってくれていたのだと思います。また父と母と一緒に試合がしたい。全国大会で勝負したいと強く思った試合になりました。

福岡からわざわざ応援に来てくれてありがとう。弟も毎回試合を見に来てくれて沢山アドバイスくれてありがとう。姉もいつも怪我を心配しながらも温かいメッセージで応援してくれてありがとう。沢山のありがとうの気持ちを力に変えて、もう一度全国の畳の上に立ちたいと思いました。

そのために、変わらなければいけないと思います。昔みたいに強い気持ちで戦えるように、変わりたいです。