おはようございます。総合1年の島田です。

三寒四温の候、皆様お変わりありませんでしょうか。おかげさまで、怪我の治りは順調です。打ち込みができるほどに回復致しました。前回の日誌後、心配の連絡を下さった先輩の皆様方には、この場をお借りして重ねてご御礼申し上げます。

本日、一足先に福岡から東京へ帰らせて頂きます。今回の関西・九州遠征では、多くの学びと刺激を得ることができました。そんな空気をまだ感じていたい名残惜しさと言いましょうか。形容しがたい感情が渦巻いております。

さて、今回のテーマは、「人」です。遠征を通して僕が感じ考えたことを書き連ねさせて頂きます。少しばかりご辛抱下さい。

人というのは、本能(善意と悪意)と理性(動機と目的)で成り立っています。それぞれ2つずつ、計4象限に分類できます。また、哲学的観点から考えてみると、人は認知そのものであると言えます。ここでは「人の個体別」という点において、各個体はそれぞれの認知の表出した存在です。簡単に言い表せば、人間はそれぞれ違う宇宙の中で生きているということです。例えば、「努力」という言葉について、劣悪な環境下で生き抜いてきたAさんと、優良な環境下で育ったBさんとでは、その言葉の意味が全く違います。言葉だけではありません。認知するすべての事象について、受け取り方は千差万別といっても過言ではないでしょう。ここで、僕はこれまで生きてきた19年間の中で、悪意をベースに生きている人に会ったことはありません。本能は、善意だけであると僕は信じています。「言葉」で思考しているが故に、二項対立が発生してしまうのは仕方のないことですが、性善説は有力であると考えます。

とすれば、肝要なのは理性の部分です。各々の認識が異なれば、たとえ同じ目的を共有していたとしても、動機が異なるのは当然です。先述したAさんとBさんが同じ組織にいたとしましょう。組織の意思決定者が、「目標達成のためには努力しましょう。」と言ったとします。その後起こる事は明白です。AさんとBさんはお互いの努力の仕方に疑問を持ち始めます。Aさんは「Bさん、あなたは何故もっとがむしゃらにやらないんだ。」と感じ、Bさんは「Aさんはどうしてもっと効率的に行動しないのだろう」と思うはずです。人数が多くなれば、そのような思考の交錯は天文学的な規模になります。ここに日々の生活でのやり取りや内外からの刺激も加わるため、組織内で不信感や嫌悪感が募るのは仕方のないことです。

ここまで書いたことを見ると、所詮他人を理解することは出来ない、と考えてしまうのも無理ありません。その通りだと思います。理解する必要は全くありません。一人当たりの脳神経細胞の数は約860億個と言われています。そのすべてが稼働することで感覚を作り出しているのです。文字通り、人は宇宙だと言えます。「理解できる」という前提から降りる必要があるでしょう。ただ、ここで強調されるべきは、賛同できない対象は動機であって、その人本人ではないということです。孔子の唱えた、「罪を憎めど人は憎まず」という教えが心に響きます。僕はこれが最も重要なことだと考えています。だからこそ、絆が大切なのではないでしょうか。「絆」という言葉は使い古されすぎて、その本来の意味を失っています。それでも尚、お互いを尊重する気持ちや、相手の立場になって考えてみることを可能にします。「分かり合えなくても大丈夫。なぜならあの人には私にない良さがあるから。」「私とあの人は合わないけど、大丈夫。なぜならお互いを尊重し合うことが出来るから。」と思うことに意義があると感じます。社会学者の宮台先生が、「凸と凹が補い合うことが必要」とお話されていました。上記の内容を考えるにあたり、的を得た指摘であると感じました。

最後に、先日の慶甲戦、とても感動致しました。結果は清々しいほどの圧勝で、慶應の本来の力を直に感じることができました。特に、普段からお世話になっている澤田先輩、松永先輩、藤井先輩のお三方の雄姿を直接見ることができ、嬉しかったです。僕はこんなに強い人達から教わっているのかと、密かに感激しました。また一から頑張ろうと思います。

拙い文章では御座いますが、本日はここまでとさせて頂きます。ご精読ありがとうございました。

終わり。