こんにちは、1年の高です!
突然ですが、先日Netflixオリジナルアニメ映画の「泣きたい私は猫をかぶる」という作品を観ました。僕は映画や漫画など製作者が作品を通じて何を伝えたいのか、ということを考えながら観ることが好きなのですが、「泣きたい私は猫をかぶる」を観て僕なりに感じとったことがあったのでここで述べさせて頂こうと思います。何言ってるんだこいつは、という目線で読んで頂けたら幸いです。
この作品を観ようと思ったきっかけはあいみょんが作詞作曲した「猫」という曲でした。僕は「猫」という曲がとにかく大好きで「泣きたい私は猫をかぶる」という題名を聞いて主題が猫なら面白いに違いない、という気持ちで観てみました。
ー自由奔放な主人公の美代はひょんなことから被ると猫に変身できる仮面を手に入れます。彼女はなかなかうまくいかない現実から逃げ、仮面を被って猫で過ごす時間が徐々に増えていくうちに、人間に戻ることができなくなってしまいます。ー
ネタバレはしたくないので、少しあらすじを紹介させていただきました。
はじめに、もしも猫に変身することが本当にできるとしたら僕ならどうしよう、と考えました。猫と人間の違いは果たして何でしょうか。僕は「人格があるかないか」という結論を出しました。人格があることでひとりひとりが「自分自身」や「信念」を持って生きています。
人格について、「ペルソナ」というカール・グスタフ・ユングの唱えた概念があります。人間は皆ペルソナと呼ばれる仮面を被りながら生きている、という考え方です。ペルソナは元来、古典劇で役者が用いた仮面を語源としています。僕は学校に行けば生徒としての仮面を、部活に行けば部員としての仮面を、家に帰れば長男としての仮面を被っている、ということになります。被る仮面によって役割は違いますから、本当の自分を出せる仮面があれば、自分を偽っている仮面もあるでしょう。「裏表がある」という表現がありますが、仮面に裏の顔はないので「たくさんの顔(ペルソナ)がある」という表現が僕は適切だと思います。
それはおかしなことではありませんが、極端に他の仮面との差がありすぎるのは良くありません。それは本来の自分を見失ってしまうからです。俳優などの芸能人やアイドルなどは、演者としての仮面と本当の自分とがあまりに異なってしまえば区別がつかなくなってしまい、本当の自分を見失ってしまう、壊れてしまうといった可能性もあると思います。
作中で猫になるために被る仮面はペルソナを表していたのではないでしょうか。美代は猫としての仮面を被りすぎるあまり、人間という本来の自分を見失ってしまい、人間に戻れなくなってしまいました。偽りの仮面を被りすぎてはいけない、つまり自分を偽りすぎてはいけない、という作者のメッセージなのではないか、というのが僕の解釈です。
自分を偽りすぎたSNS上の仮面は、「人格」の条件である「責任」を失い、誹謗中傷といった人格を持たない行動を起こしかねません。
演者自身が魅力的な人間であるほど演技は人々の目に魅力的に映るものです。偽った仮面を磨くのではなく、柔道を通じて自分自身をもっともっと磨いていきたいと思いました。
そんなことを考えていると、あいみょんの「猫」と「泣きたい私は猫をかぶる」の共通点が見えてきました。
「猫」では彼女を振ったあとに彼女の存在の大きさを、「泣き猫」では美代が猫になってしまい、会えなくなってしまうことで周りの人間は美代の大切さを知ることができます。
どうやら猫は身近な人の本当の大事さに気づかせてくれる存在みたいですね。
ちなみに犬派です。おわり。