こんにちは。文学部4年の栗田です。
突然ですがみなさん。ここに鉛筆と紙があります。
では、「時間」を書いて表してください。(既に何人かから連絡が来ていますが、漢字とかひらがなとか数字では書かないでね。。)
いかがでしょうか?
ほとんどの人は左から右へ横向き直線の矢印を書いたのではないでしょうか。
私もそうでした。(じゃない人がいたら気になるので教えてね)
なぜこんな当たり前のことを聞くのか。
というのもこの感覚は近代の産物に過ぎないらしいのです。
というわけで今日は「時間」についてお話ししようと思います。
(言いたいことは後半だけで、ここから始まる長ったらしい説明はそのための導入部分です。ので、飛ばしていただいて大丈夫です)
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かつて、原始共同体では時間は「反復的なもの」で、「可逆的」「質的」でした。明るくなったら起きて暗くなったら寝る。暑くなりはじめたら栽培をして寒くなりはじめたら収穫する。など。
つまり、彼らにとって時間は「昼⇔夜」「夏⇔冬」「乾燥⇔洪水」・・・の繰り返しでしかなかったのです。
時間が質的であるというのは、一つの共同体のうちにある限り、例えばその月が「客観的に」25日あるのか、35日あるのかという量的な問題は提起されない、という意味です。
閉鎖的な共同体で暮らしている限り、確かに必要ないですよね。
そこから時間は二分していきます。
一つがヘレニズム文化の円環的な時間(量的かつ可逆的)です。
他の集団との取引が始まったことから、取引の便宜のために貨幣が鋳造され、それと同時に計量可能な時間も生み出された。「可逆的」の部分に関しては原始社会から進展がなかった。らしいです。
もう一つがヘブライズム文化の線分的な時間(質的かつ不可逆的)。
つまり終末論で、後期ユダヤ教の徹底した迫害とイェルサレム滅亡の時代、受難と絶望の時期に出来上がった考え方です。
この受難と絶望から、「物事はけっして反復されてはならないもの」としてとらえられました。これが原始社会で考えられていた「自然」の循環性の否定となります。まあ、たしかに嫌なことは繰り返されたくないですよね。そういうことでしょう。
ただし時間を厳密に測定するという発想はなかったようです。
このヘレニズム文化、ヘブライズム文化を経てできたのが近代的な時間観、つまり直線的(量的かつ不可逆的)な時間なのです。
過去(「もうないもの」)、現在(これだけが「あるもの」)、未来(「まだないもの」)を一列に並べたものとして把握されます。(冒頭で触れた時間を矢印で表す、という近代以降の人の性質によく顕れています)
かつ、時間は全てのできごとがそこに位置づけられる空虚な座標として量的な性質をもつと考えられます。
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ようやく本題です。
この「直線的な時間観」がもたらしたと言われているのが「時間のニヒリズム」です。
まず、時間の不可逆性は「過去」を無意味化しました。可逆的な時間において「過去」は「現在する過去」であり、消え去ることなくつねに堆積していくものでした。でも時間が不可逆的に捉えられるようになったことで「過去」は「絶えずむなしく去ってゆくもの」なのです。
そうなると、「現在」もまた、やがては虚無となるものとして意識される。こういう訳で「現在」の無意味化が生じます。
また、時間が計測可能になったことで、「未来に向かって現在を手段化する構造」をもった未来志向的な考えが現れます。こうして近代に特有の「今を犠牲にしてより良い未来を目指す」精神が成立したのです。
たとえば。
皆さんが英語の勉強をしているとします。
なぜ皆さんはそれを「今」、行っているのでしょうか?
旅行したときに話したいから。
TOEICで満点を取りたいから。
海外で働きたいから。
理由は色々あると思いますが、
これら全て「現在」ではなく「未来」への投資ですよね。
つまり、「未来」の充足のために「現在」を生きている。
では、その「未来」ではその「現在」(今からみての未来)だけを充足して生きていますか?
おそらく、ほとんどないでしょう。
近代以降、人間はより「未来」のための投資の行動を好んでとり、その「今」を充足させる生き方は嫌っていると思います。
ところで、私たちは「未来への投資をする」一方で、その未来には「死」が待ち受けます。
こうしてみていると、どこにも生の意味を見出すことができませんね。
つまり、過去、現在、未来からなる、生存する時すべてが、それ自体として充足しているという感覚が失われ、その結果過去~未来までのいずれにも「人生の意味」を求められ得なくなる事態を指すのがこの概念です。
どうしましょう。
私は近代的な時間観がどのようにしてできたかは知りませんでしたし学術的に名前が付けられていることも知りませんでしたが、この「『時間のニヒリズム』からの解放」のことはしょっちゅう考えていました。
まだ答えは見つかっていません。
もちろん今が充実していないわけではありません。おかげさまでとても充実しているつもりですが、それでもこの虚無感から抜けだすことはできません。
ここで少し、先日突然ある後輩からきた質問についてのお話をしようと思います。
「大人とは」
みなさんはどう答えますか?
自分の答えは恥ずかしいので書きませんが、(笑)
背負い背負われる覚悟のあるやつ
とその後輩は言いました。
その時は、「うん確かになあ」くらいにしか思いませんでしたが、
ちょっと時間のニヒリズムからの解放にヒントを与えるものなんじゃないかなと、ふと思ったわけです。
背負うこと、背負われることは、「今」背負い背負われることを意味すると同時に、「未来」の約束をすることでもありますよね。
今、「現在」と「未来」の両方に責任をもち、それを今実行していく
こうすることによって、
今行っていることが「未来」への投資だとしても、
それを約束した今もその契約は現在しているから、必然的に「現在」も「未来」も充実させることになる、こんな感じですかね?
まあ、過去はどうするんだって感じだし穴だらけの論であるとはありますが、今後の人生で考えていけたらなと思います。
みんな何を考えて生きているのか、とっても不思議です。
というわけでこの記事を読んで何か考えたことがあったらぜひ教えてくれるとうれしいです。
たまには文学部っぽい?ことを。
ひさしぶりに事前に書きなぐってたら長くなってしまいました。
読んでくれた方ありがとうございました。
失礼します!
p.s.
最近の部員日誌めちゃくちゃおもしろいんだけど、
その人の声、話し方で再生されるのは現役部員の特権でしょうね。残り半年、部員日誌も柔道も楽しんでいきたいなと思います。