夜と朝の狭間に棲む月明かりを纏った夜桜を横目にビールを飲みたいです。高です。出かけようにも予報が雨模様で神様に邪魔されている気分。夏も朝も来なくていいのに、なんて一瞬でも思わせる罪な奴なのです、ほんとに。

「不確実」や「不明瞭」の秘める神秘にとても惹かれるとともにその危険性を感じます。あるか、ないか、なんて単純な問題ではなく、考えるだけで頭が痛くなってしまいます。マスクのせいで曇った眼鏡から見える世界で触れたものが現実か虚構であるかなど証明しようがないのです。

 

「生死」はとても不明瞭です。何をもって人は生きていて何をもって人は死ぬのか。「死を目の前にすることによってはじめて知る生の実感、たまらない」なんてことを言うデスゲーム漫画の主人公がいる一方で、「何をしているときが一番好き?」と問えば「寝ているとき」と答える友人もいます。え、寝ているときが一番好きってそれ生きていて楽しい?と正直思います。僕に関しては、不思議とある日死んでいくような感覚に見舞われることもありますがもちろん死んでなんかいません、すこぶる健康です。

 

「命は散り際が最も美しく輝く」丑三清志郎

「人生は芸術を模倣する」と信じていたエイミーは人生を締めくくる場所に海底を選びましたが、沈む中瞼の裏に見たのは月明かりでした。歩く度息が詰まっていたあの頃に比べれば海底は彼にとって生きやすい場所なのかもしれません。あの世でロックンロールは流れているのでしょうか。

 

僕は「ライブで音楽を聴いているとき」と「柔道の試合前」に一番生きていることを実感しています。一見全く異なる状況で、楽しい感情と緊張では全く対角線に存在しているように感じます。しかしそこに共通点はありました。どちらの状況も心臓が鳴っているのです。ライブ会場でバンドが鳴らす音楽は超大音量で僕の心臓を響揺し続けます。一方で極度にプレッシャーに弱い僕は、試合前になるといつも心臓をアナにノックされているように爆爆させています。考えてみるとやはり心臓の活動が本能的に生を実感させていることに驚嘆しますね。

 

心。これもまたとても不明瞭で不確実な存在だなと感じます。心臓とは別物です。
心とは○○である、なんて僕に定義づけはできませんが心を持つのは生物の特権であると皆さん考えているのではないでしょうか。

 

思考し、感情を持つAIが誕生した時こそ、シンギュラリティを超えるときだとかそうではないだとか言われています(多分)。その辺の事情は詳しくわかりませんが、例えば僕そっくりのAIを作ろうと考えた場合、僕の感情や性格、言語パターンをそっくりにプログラミングすることはおそらく可能でしょう。それは本物の感情などではなく、あくまで人間にそうであると錯覚させるプログラムですが、AIに心があると人間に錯覚させてしまえばそこには心があるということになる可能性があります。みんな大好き二郎ラーメンですが、本当の名前は三郎ラーメンだったとしても、みんなが「二郎行こう!」「二郎大好き!」と呼んでいれば、もうそれは三郎ラーメンではなく二郎ラーメンなのです。(例えが悪かった気がする。)心があるかないかなんて所詮そんな二枚舌で語られるような話なのかもしれません。ですが心に穴が開いたり、心が躍ったり、心が攫われたように感じることができるのは人間だけであってほしいと心から願います。人の間はきっと心です。

 

心の形がもし❤なら、下尖っていて刺さったら痛そうですし、中心に簡単にヒビが入ってしまいそうで不安なので🍀(四葉のクローバー)みたいな形にしたらいいんじゃないかなと思います。色は赤やピンクだと何だか生々しくて嫌なのでインディゴにしましょう。藍の色です。今度神様に会ったら頼もうと思います。

おわり