仲間

秋雨が寒さを運んでくるこの頃、体調には一層気をつけたいです。ご無沙汰しております、松永です。

気づけば今年も残り三ヶ月、尼崎や早慶戦も目前に控え世代交代を意識し始める季節となりました。そこで僕は「仲間」について深く考え始めるようになりました。今回は「仲間」についての僕の考えていることを書きたいと思います。

早速ですが、皆さんにとって仲間とは何でしょうか?定義的に言えば、「共に物事を進める人物」や「地位や職業が同じ人」、つまり目的を同じくする人のことを言うのでしょう。ですが僕はこの定義に対してあまり良い印象は持ちません。「仲間」という暖かい響きに対してあまりにも淡白でだと思うからです。この定義からすると、人間的に尊敬すらできない非道徳的な輩がいたとして、その輩すらも同じプロジェクトにおいて目的達成のために共同作業をしたならば「仲間」になります。

また逆に、別々の道を歩むことを決意した、かつての同士はもう仲間と呼んではいけないのでしょうか?そんなことはないと思います。異論がある方はワンピースアラバスタ編、ビビの元を去る麦わら海賊団のシーンを見直してきてください。つまりこの定義には欠陥があります。そもそも仲間を定義すること自体が野暮かもしれません。

ですが、敢えて定義するのであれば仲間とは、「半学半教」の理念のもと高めあえる対人関係を言うのではないかと考えます。

この歳になり始めて福沢イズムを部分的に理解しつつあります。

「傷の舐め合いはするな。」

どこかでよく聞いたセリフです。互いに弱い部分に目を瞑り合う関係は好ましくないといった「語録」の一つですが、この格言、僕は大好きです。

もうひとつ、

「自分の感情をコントロールできない奴が柔道の技術を会得することはできない。」

かつては耳が痛くなったこの言葉、今では胸に刻みつけている格言です。

この言葉を考え続けて辿り着いた結論は、「威を振りまいて得る物は無い、それどころか全てを失う」ということ。

一旦話が飛びますが、最近強く感じることがあります。それは、世の中には天才が数多く存在することです。柔道をしているとそんな天才の存在に敏感になります。身近な例を挙げると、主将杉村先輩は無論、ほぼ初心者の状態から始めたにも関わらず背負い投げのタイミングが天才的な平山先輩、柔道を始めて一ヶ月足らずで驚異的なセンスを感じさせる新入部員の島田、ついでに入道。(あまり調子に乗せたくない、いいから飯を食え)

彼らのみならず慶應柔道部員全員が僕の何倍も天才だと痛感させられると共に、強い弱いや先輩後輩関係なく、必然的に僕は彼らに憧れ、技術を学びたくなってしまいます。

僕の立場からすると、先輩からさまざまなマナーをはじめとして、柔道の技術やメンタルなどを学ばせていただくのはもちろんのこと、乱取りでは全力を尽くして互いのためになるよう貢献し、後輩に対しても指導を行いつつも自身が素晴らしい技を経験させてもらうといったgive and take を心がけるようにしています。

自分で言うのも何ですが、良い関係を築けているのではないでしょうか。

もし仮に良い関係を築けているとして良いのなら、これこそが半学半教の賜物、真の仲間の繋がりの形成と言って良いのではないでしょうか?

互いに弱点に目を瞑り合っていたり、周囲に圧をかけていては仲間関係の形成という、人生で最も貴重な機会を逃すことになります。

人脈は大きな武器になることを僕たちは既に知っています。この機会を逃すことすなわち人生における武器を一つ失うことです。

ここで冒頭に戻りますが、半学半教の理念のもとで形成される人間関係を「仲間」と呼べるのだと考えます。(さすが福沢先生としか言えません。)

実は最近、覚醒の片鱗を感じさせる奴がいます。同期の澤田です。彼は元々面倒見はあまり良くない方だと思っていましたが、今やそのユーモアから人気も高く?柔道も光るものがあり、何より優しい男になっています。(後輩の悩みをご飯を食べながら親身に聞いてあげたとか

形はどうあれ大学生活で彼は着実に素晴らしい男になっています。実は結構頼りにしているなんてことは、彼に直接言わずとも伝わっているとは思いますが、ここ最近はますます信頼をおける仲間となっています。急成長を遂げた彼も紛れもなく天才でした。人間的に見習いたいです。そして僕も半学半教の輪の中で自分の役割を果たし、仲間と成長し続けたいと思います。

これから年末にかけて忙しさにスパートがかかります。今回は今一度、仲間の重要性とそれによって僕自身がどれだけ救われているかについて確認するために日誌を書いてみました。人間教育の先にある優しさを求めて、これからも自分に負けず頑張りたいです。今後もよろしくお願いいたします。