去り行く春の足音に心なしか一抹の寂しさと、羽化したばかりの蝶のような軽やかさとを感じる今日この頃ではございますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。ご無沙汰しております。「奥襟チンパン」の島田です。


4年生の先輩方は面接官と面談中ですが、僕は怪我と面談中です。圧迫面接すぎて辛いので、できるのならzoom面接にして欲しいです。入部して以降、柔道は怪我がつきものである、とよく耳にしますが、なるほどその通り。もはや怪我しないようにすることは諦め、出来得る限りの怪我を先に経験し、今後の予防スキルを高めて行きたいと思っております。最近は通っている整体で身体のほぐし方を学び、同期や後輩に実践しています(石畠君は快く揉ませてくれますが、山元君はあまり乗り気ではないようです。;A;)。何より、どのようなケアが必要かを後輩に伝えていくことで、怪我の少ない部に少しでも近づけていけるのではないかと思案しております。たくさん怪我をし、その分回復法を伝授していくというのは、我ながら名案であります。

 

話は変わりますが、生きている理由を考えることがよくあります。
母に「人は毎日死に近づいているんだよ。だから本当にやりたいことやりなさい。」と口癖のように言われるのもあり、なぜ生きているのか、本当にやりたいことは何かを考えます。別に病んでいません。

そんなものはありません。

毎日考えて答えが出ないということは、人間は自身の生きる理由を考えるべきではないということです。特に現代人は。

おそらく死ぬときに分かるのでしょう。

もし僕が原始人であれば、僕の生きる意味はデカいマンモスを倒し、優秀な遺伝子を残すことでしょう。

もし僕が社会的に虐げられてきた階層の人間であれば、僕の生きる意味はこれまで誰も成し遂げたことのない偉業をやり遂げ、歴史に名を残すことでしょう。

もし僕が武士であれば、僕の生きる意味は剣の道で大成し、将軍お抱えの剣術指南役となって大きな領地をもらうことでしょう。

もし僕が、、、であれば、、、、って。今って何もなくないですか。世界は便利であふれ、効率化や生産性は至極のように捉えられ、殆どの人が自身の承認欲求を満たそうと、犇めき合っています。没個性の時代とも言えるでしょう。個性は容姿や年収などの所謂「ランク」で評価されるばかりです。前回でもコンテンツについて書きましたが、やはり人間はコンテンツに吸収されて終わりを迎える運命にあるのでしょう。「生」そのものをぶつけて散る事は社会を捨てない限り不可能に近く、かといって社会を捨てることすらできない弱い存在に人間は変わったのです。

視点を変えて上記の例について考察するにあたり、演繹的に導き出される法則は「人間はその周りの環境に自身の生きる意味を見出す。」でしょう。しかし、これは逆説的に言えば、人間は己が存在を環境に委ねていると言えます。それはなんだか嫌ではありませんか。負けた気がします。したがって、「生きる意味は何か」という問いは次のように変えてみる必要がありそうです。

僕たちの”マンモス”は何処にいるのか。

環境の中にマンモスがいるのであれば、行うべきは「マンモスは何か」を考えることではなく、マンモスのいる環境へ今の自身の環境を変えることではないでしょうか。とすれば、つじつまが合います。

少なくとも僕は今、柔道で強くなるために生きている。強く優しく在りたい。

今回はこれまでの日誌とは一風変わった文体で書かせて頂きました。
僕が密かに憧れている高先輩を意識していないと言えば嘘になります。

毎度、「部員日誌面白かったよ」という反応を頂き、感無量の至りでございます。柔道部に貢献できるよう、日々精進して参る所存でございますので、今後とも変わらぬご指導ご鞭撻の程何卒宜しくお願い申し上げます。

拙い文章ではございましたが、ご精読下さりありがとうございます。
本日はここで失礼させて頂きます。

おわり。