ご無沙汰しております、4年の日時本です。

どうやら今日が僕の人生最後の部員日誌のようです。およそ3万文字に及ぶ長い長い4年間とは今日この場で終わりを告げて、僕は入部する前のようにまた読む側へと戻ります。

実に感慨深いものがあります。

さて、この最後の部員日誌何を書こう何を書こうとずっと迷っておりました。

シンプルに謝辞を述べて綺麗に終わらせてもよかったのですが、ここを逃すと一生この4年間を振り返ることもなさそうなので、破茶滅茶に長い自己満足で非常に申し訳ないのですが、自分の話に少々お付き合い下さい。

僕は入学前の2月に大学柔道部の門戸を叩きました。理由は色々とあるのですが、一番は自分が求めることのできる一番良い環境で、ただただ柔道をしたかったからです。本当に柔道がしたかっただけの筈でしたが、心の奥底では「早慶戦に出てみたいなぁ」くらいは思っていました。思ってはいたのですが、入ってすぐに「自分が選手としてこの部の勝利・成長に貢献するのは無理だ」と直感しました。ここで同期の篠原のように必死に努力できたならば何か変わったのかもしれません。ただ、僕は柔道に対する気持ちを折ってしまったのです。

でもだからといって退部するのはなんだか違くて、好きで始めたはずの柔道を適当にこなすだけの、死ぬほど中途半端な人間になってしまいました。

しかしまあ、柔道で部に貢献する気がないのであれば他の部分で貢献するしかありません。僕には居場所を提供してくれた大学柔道部に尽くす義務があるのです。そこで僕が取った行動は「良い子」でいることでした。尖らず、飛び出さず、仕事の期限は守り、遅刻も欠席もせず、役割を果たす。どこまでも当たり前のことで、今思えばこれが何の貢献になるのかも分かりませんが、当時の僕にはこれしか思い付きませんでした。

この部員日誌はその良い例です。元々文章を書くことに抵抗がなかったとはいえ、最初から最後まできっちり期限を守り、ある程度分量を書いていたのにはちゃんと理由があるのです。全てが全て打算から来る日誌ではありませんが…

話を戻します。

察しの良い人ならば、この行動はただたた「柔道から逃げているだけ」と気付くでしょう。

間違い有りません。

「良い子」を盾に柔道に向き合うことから逃げていたのです。

そんなこんなで大学2年まで非常に情けなく、きついことから逃げながら過ごしていた僕は、何故か主務に選ばれてしまいました。自分の代は多分自分がやることになるだろうとは思っていたのですが、まさか一個上の分の主務までやるとは思っていなかったので、非常に驚いた記憶があります。ただ、これを当時の僕は渡りに船と考えました。何故ならば、この結果は僕にとって、今までの立ち居振る舞いが決して間違いではなかったという証明になりましたし、何より今後もそうあることの大義名分を手にしてしまったのです。

そうして内山正志先輩の代が引退し、いよいよ自分が幹部になります。はっきり言って自分はこの主務という仕事を舐めていました。舐めきって、「まぁなんとかなるっしょ」という根拠のない楽観からすべての仕事をそこそこに適当にこなしていった結果、何一つとしてうまく行かなくなりました。当たり前ですね。どこまでも、当たり前の結果です。ある行事では「もう主務をやめろ」と叱責され、またある行事では「お前はどこまでも気が利かない」と指摘され…

何故自分が、自分だけが言われなければならないのか。

周囲の学生は楽しそうにその場でふざけまわって飲み食いしているのに、自分は永遠に動き回っているのは何故?

そんなことは実際にはなかったのだと思います。主務の仕事に舐めてかかり、どん底に落とされた僕は、あまりにも余裕がなくなり、全てがマイナスに映るようになって、悪い方へ悪い方へ考えることしかできなくなっていました。いっそのこと辞めてやろうかと思うことも有りましたし、実際にそんな度胸がないことに気がつくと、また一層自分のことが嫌になりました。

ただ、その度に部につなぎとめてくれたのは周囲の存在でした。ひとつ上の澁沢先輩は僕の失敗に一緒になって頭を下げてくださりました。この代の先輩方はどんなに自分がしくじっても、情けなくてダメダメでも、見放すことなく声をかけ続けてくれ、常に輪に入れてくださりました。

お陰様で本当に少しずつではありますが、主務としての自覚や、この仕事の重さを覚え、気持ちを新たに頑張ることができていました。

そうして早慶戦まで何とか無事に終わり、しかも優勝という最高の形で一つ上との幹部生活を終えることができました。早慶戦が終わってから一つ上の代が「撮ろうよ!」と声をかけてくれて撮った写真は、今でも僕の宝物です。

さて、いよいよ自分の代になりました。しかし、最上級生としてしっかりやろう、もうすぐで引退だと思った矢先に新型コロナウィルスが猛威をふるいます。行事はもちろん、公式試合まで消え、自分の仕事はコロナウィルス対応のみとなりました。仕事量は大きく減り、気持ち的に楽な日々が訪れた一方で、自分が主務である必要のなさを感じていました。このまま適当にやって11月に引退しちゃいたいななんて考えることも多々ありました。

そんなこんなでダラダラと過ごしていたらいつの間にか8月になり、なんとか全体練習の再開が許可されます。それと同時に何故自分が柔道部に入ったのか、何故柔道をやっていたのかを思い出しました。4ヶ月今まで自分がやってきたことをすべて取り上げられて初めて、柔道がどれほど自分の中で大きな割合を占めていたかに気が付かされたのです。何年かぶりに、下手くそなりに柔道と向き合うことができるようになり、正直この3ヶ月間の練習が今までで一番、掛け値なしに楽しかったです。

そんな楽しかったはずの柔道生活もあと6日で終わりです。はっきり言って死ぬほど悔しいです。柔道がやりたくて入ったはずの柔道部で、逃げて逃げて逃げ回って、終わり間際でようやく少しだけ向き合って。幾らなんでも遅すぎます。この苦い記憶だけは一生残るのでしょう。

 

ただ、このように書いてはいますが、別にこの四年間全てを悔いているわけでは有りません。

まず、こんな駄目な僕でも、何かと仲良くして下さる先輩方や、「ひーじーさん」と慕ってくれる可愛い後輩達ができました。更には、初めて本音で言い合いができる同期と巡り合うこともできました。何より、この體育會柔道部は僕にちゃんとした居場所を与えてくれました。

また、1つ誤解のないように言っておきますが、僕は主務の仕事が嫌いなわけでは有りません。確かに、できて当たり前の仕事を当たり前に、キレイに終わらせるプレッシャーが僕は大嫌いでした。行事の前日はよく眠れないことがほとんどでした。

もっと言えば、全て「できて当たり前・成功して当然」の仕事なので、別に周囲から評価されることもありません。しかもそんな仕事でさえも、自分の力量不足のせいで、上手く運ばないことのほうが多かったですし、その分周囲に多大なる迷惑をかけ続けました。口が裂けても楽しかったとは言えません。

ただ、それを補って余りある収穫が、学びの機会がありました。今では僕を主務として選んでくださった先代の九津見先輩達に感謝しか有りません。そして頑張れ、栗田・伊藤・今野を始めとする次の主務副務達。

というわけで4年間を振り返ってみたわけですが、これで終わりだと流石に少し暗すぎますし後味が悪すぎます。なので、純粋な感謝の気持ちを伝えることで、帳尻を合わせましょう。

 

まず、先輩方。若輩者で未熟者なこんな僕を、信用していただき、仕事を任せていただきありがとうございました。本当にご迷惑をたくさんおかけいたしました。ここから先、柔友会の人間として後輩たちに還すことによって少しでも取り返していければと思います。

次に、後輩たち。選手でもない、柔道も弱い、どこまでも中途半端な僕の言うことに毎回耳を貸してくれて、更には胸まで貸していただきありがとうございました。本当によくできた、死ぬほど強い後輩たちに囲まれて柔道をすることができて、僕は幸せものです。

そして、同期。喧嘩は絶えず、先輩方からも後輩からも「仲が悪すぎる」と言われ続け、多分外から見たら散々な代だったのだと思います。それでも僕は胸を張って、最高の代だったと言えるでしょう。別に理由はないのですが。いちいち口うるさい、変な一貫校上がりの奴を快く混ぜてくれてありがとうございました。

最後に、両親へ。最後の最後まで良いところを見せることができず、ごめんなさい。そして、10年前に柔道を始めたときから、いつも一番に応援してくれて、ありがとうございました。道場一杯に響き渡る声援は、嫌ではありましたが、いつも力になっていました。いつか、受けた恩は必ず返します。

 

さて、こんなところでしょうか。結局最後も最後で長々と書いてしまいました。ここまで読んでくださった皆様方、いつも読んで下さる皆様方。本当にありがとうございました。少しは良い文章が書けるようになったでしょうか。ちょっとでも記憶に残ったのであれば幸いです。

 

最後に、

14日、全員笑顔で終われたらと思います。僕達のチームは強いです、これだけは間違いありません。そして、その為のサポートは終わりの終わりまで、全力でやらせていただきます。

 

 

 

 

以上。