こんにちは。

4年の九津見です。

そろそろ最後の部員日誌だな。と思いHPを確認してみると、

投稿順が「内田、内山、小田原」ではなく、「内田、小田原」になっていました。

小田原の日誌なんて何世紀ぶりだろう、と思ったのもつかの間、

いやまて、内山はサボって、小田原はフライングしたのか。

最後の日誌も通常通りあいうえお順に更新する※と事前に決めたじゃないか。

※(このルールが順守されたのは恐らく3年半前、最初の一度きりですが)

同期のLINEグループを確認。

15:33 かいこー(九津見海公) 部員日誌、あいうえお順でいい?
15:34 かいこー(九津見海公) 今日から毎日1人でで1週間で終わる。
15:35 長田治親 主将がトリ飾ってもいいよ
15:36 内田暁大 今日は俺ということでよろしい?
15:36 長田治親 よろしゅう

が最後のやり取りでした。

なるほど。

どうやら長田の、「主将がトリ飾ってもいいよ」に対して誰も同意も否定もしなかった結果、内山は最後になったようです。

なんだか私達の代らしいなとニヤけてしまいました。各々が適度に譲歩しながらそれなりにうまく成り立っている関係。うまく表現できませんが、良くも悪くもそれが私たちの代のカラーだと思っています。

 

長々と前置きをしてしまいましたが、何はともあれ最後の部員日誌です。

何を書くかまだ決めていませんが、思うがままに書こうと思います。

 

少し過去を振り返らせてください。

私は幼い頃からスキーをやっていました。祖父母と父親に連れられ、物心の付いた時にはゲレンデを転げ落ちてました。

小学校低学年からは地元の強豪チームでアルペンスキーをはじめました。

シーズン中はスキー三昧の日々でした。

学校のある日は午後5時から9時まで練習。

冬休みは毎日午前8時半に集合。一番初めのリフトに乗り、「大吹雪になってリフトが止まりますように」と祈りながら、昼休みを挟んで午後の4時まで練習です。その後に場所を変えて練習したこともありました。

週末はコーチのマイクロバスで遠征。おんぼろの宿に泊まって試合。

春休みにはチーム合宿。スキーはともかくラントレがきつかったです。

なので11月から5月のシーズン中はいつも乾燥と寒さで足の裏はひび割れ、指はあかぎれ、ヘルメットの金具と頬の皮膚がくっついて凍傷になり、ヘルメットを脱ぐ度に瘡蓋が剥がれて血が流れる。そんな生活を送っていました。おまけに顔は雪焼けでパンダ状態。

夏は学校のサッカー少年団と町のスイミングクラブに所属していました。

スイミングクラブには夏の体力作りのためにスキーのチームメイト数名と一緒に通ってました。サッカーは週5,6回ありましたが、水泳を優先していた記憶があります。

そんなこんなで頑張っていましたが、練習環境と強い仲間たちに恵まれていたにも関わらず、結局スキーでは全国上位入賞は叶いませんでした。

しかし良き仲間と過ごす日々はとても楽しく、充実していました。

 

こんな慌ただしい「体育会系」生活も小学校6年生の春にアメリカに引っ越すとともに終わってしまいました。

これは大分後になってから気付きましたが、「終わって」しまったというよりも、「自分で終わらせて」しまいました。

アメリカでは、週末はサッカー、平日は週2でテニスをしていました。さほど厳しい環境ではなく、純粋に楽しくスポーツをさせてもらいました。
冬は極寒であったものの、降雪量の多い地域では無かった上、平野だったのでスキーを続ける機会には恵まれませんでした。

そして中学校2年の春に帰国。

スキーに戻る選択肢もありました。

ただ、ブランクが2年間あった上に、またあの生活に戻りたいと自発的に思うほどの熱意が無くなっていました。思春期特有の「格好つけ」だったのかもしれません。

中学校の2,3年はサッカー部で普通の生活をしていました。田舎の地区予選で入賞できれば上出来のチーム。特段思い出はありません。

そして高校。家が遠いという事もありましたが、是が非でも部活をやりたいという意思も無かったので帰宅部でした。

結局3年間、ボーっと過ごして終了。

高校自体は割と楽しかったです。早弁をして、昼休みと放課後は体育館やグランドで遊んで、行き帰りの電車は爆睡。そんな高校生活。
夏は釣り三昧、冬は友達とスキー。

ただ、学校の成績も悪く何かに打ち込んでいたわけでもない自分、進路すら定まっていない自分が、高校を卒業した途端に嫌いになりました。

誇れるものがない、何かが物足りなかった3年間。

何度も後悔しました。何故高校で部活に入って3年間頑張らなかったのか。何故帰国した段階でスキーを続けなかったのか。だったらせめて勉強だけでも真面目にやっておけば。と。

 

その結果、受験勉強にエンジンがかかるのに時間がかかったこともあり、長い長い浪人生活を終え、大学生の肩書を手に入れたのが3年前の春。

 

大学生になった私にはサークル、部活、バイト、趣味等、様々な選択肢がありました。

しかし私の中では体育会以外の選択肢はありませんでした。

「その歳で大学に入って何故わざわざ体育会なの?」

 

今まで何度も何度も質問されました。

話せば長くなるので大体いつも「運動不足だったから運動したくなった」と中途半端にはぐらかしてましたが、

 

私は単純に、

「何かに打ち込むことが出来なかった自分」

というコンプレックスを克服したかったのです。

最後なので臭い事を言うと、青春をやり直したかったのです。

 

「何故柔道部にしたの?」

 

これもよく質問されます。

まず、最後に運動をしていた中学時代からかなりのブランクがあったため、競技に強いこだわりは無かったこと。

「大学から始めても活躍できるよ」「大学から始めても全国大会に行けるよ」という謳い文句の部にはあまり興味が湧かなかったこと(他意はありません)。

どうせだったら敢えて競技レベルの高い、小学校から続けている選手しかいない部に入ってどこまでやれるかやってみたい。

という3点を軸に部を選んだところ、柔道部がヒットしたわけです。

A先輩にI先輩を、大学から始めた初心者と紹介されたことは未だに根に持ってますが、

「初心者でも歓迎です!」「1から教えるので入ってください!」

と言ってくださった先輩方にはとても感謝しています。

 

柔道に関しては、オリンピックで活躍されている選手を知っている程度で完全な素人でした。

入部1週間で、打ち込みをしているだけなのに手が血まみれになり、腕や胸が痣だらけになりました。

待ちに待った乱取り。足払いってこんなに痛いのか。組み手って難しいな。道着をうまく握るだけでも大変なんだな。

女子にボコボコにされる。オリンピックを観ながら、「軽量級の女子ならメダリストでも力づくで勝てるな」と思っていた自分が恨めしい。

全然思うように投げれないし、技も耐えられない。寝技は痛い。耳が沸いた。

せめて投げられないよう、あわよくばパワーで相手を投げられるようにと食事とウエイトトレーニングで体重を増やす。

5月に62㎏だった体重は10月には83㎏に(最終的には89㎏)。

にもかかわらず、自分はバテバテになるまで乱取りをしていても相手は飄々としている。汗一つかかない。

体が重いから走るのが辛くなった。

自分が少し強くなったなと思ったら周りも強くなる。あぁ、なるほど。こっちに合わせてくれていたのか。

めちゃくちゃ腹が立つし、悔しい。

んー、この人には最近あまり投げられないな。果たして本気を出しているのだろうか。

 

そんな繰り返しをしているうちに、ある程度の手ごたえを感じ始めました。

小さな話で情けないのですが、ある時期から、一定のレベルの高校生とはいい勝負ができるようになってきました。

しかし、それと同時に今の環境で「早慶戦に4年生で出る」ということが如何に大変な事かという現実を突きつけられました。

私の勝てない高校生達を早慶戦の補欠選手がまるで玩具のように投げていたからです。

 

「早慶戦に4年で出ます!」

 

入部してから暫くは、方々で自己紹介をする際にスラスラと言ってました。

しかし、いつの間にかその言葉を声にする際に勇気が必要になっている自分に気づきました。

それを口にするのに相応しいだけの努力を自分はできているのだろうか、力がついてきているのだろうか。と自問するようになりました。

今思い返せば、どこか自分は初心者だからという言い訳や遠慮が出ていた部分があると思います。

いつもラントレだけは負けたくないと、必死に走っていましたが、”ラントレ「だけ」は負けたくない”なんて思っている時点で甘かったのかなと思います。

皆、柔道でも負けじとしのぎを削り、レギュラー争いをしていたわけです。その舞台にすら立てなかったことは心残りです。

 

選手に対して、頑張れだとか、甘いだとか、もっとやれるだとか、色々言ってきましたし、今も言っていますが、言うたびに心が締め付けられるような負い目を感じ、だからこそ自分は自分ができる事を精一杯やるのだと自分に言い聞かせてました。

本当は自分が柔道で魅せるべきなんです。柔道部ですから。

それでも、私の話に耳を傾けてくれる皆さんにはいつも本当に感謝しています。

そういった意味でも、本当に選手たちは同期先輩後輩問わず、いつも憧れであり尊敬の対象でした。

前述の通り、私も小学校時代ではありますが、ある程度の競技レベルでスポーツに関わっていたことがあるので、大学まで1つの競技を続けることの大変さ、そして成績を残し続けることの難しさとその価値は理解しているつもりです。

皆本当に立派だと思います。

そんな仲間たちと一緒に過ごせた日々は私の宝物です。

 

最近は寂しいなーと思いながら道場に通う毎日です。

かいこーさん、かいこーさんと話しかけてくれる後輩。

おっさん飯いこーと言ってくれる同期。

年齢的に扱いづらいだろうにちゃんと後輩扱いしてくれる先輩方。

練習が終わって同期や後輩達と風呂に入って長話。道場に戻ってしょうもない話を延々とする。

沢山失態を犯し、迷惑もかけました。

自分は、ちょっと変わった経緯で柔道部に入ったこともあり、

柔道部での当たり前のような毎日が、実は当たり前のものではなく、いつか終わってしまうものであり、だからこそ、価値があるもの

ということを理解しているつもりでした。

なので、終わるときになって悔いのないように毎日を噛みしめ、大切に過ごそうと意識しているつもりでした。

しかし不思議なものです。

結局、いつの間にか当たり前の毎日になっていました。

こんな掛け替えのない日々が、当たり前だったなんて幸せだったなと思います。

柔道的には結局私は3年と7カ月で耳が沸き、足の指とあばらと手の甲を骨折しただけなのかもしれません。

しかしそれ以上に色々なものを学び、感じることができた現役生活でした。

後輩たちに何かエラそうな説教を書いて終わろうかとも思いましたが、特にありません。

代わりに少しだけお願いをさせてください。

これからも私のような未経験者も温かく受け入れてくれるような優しい部であり続けて欲しいということ。

自分達に自信と誇りをもって、もっと強くなって成績を残して欲しいということ。

そして、時には飲み会に誘ってほしい事。大まじめです。

私が最後にできることは、早慶戦に勝つために、どんな方法であれ努力・サポートすることだと思っています。

勝ちたいという気持ちは誰よりも強いと思っています。絶対に勝ちます。

 

これから返すべき恩は沢山あると思います。それは引退後も柔道部を何らかの形でサポートしながら果たせればと考えています。柔道に関しても、未だに「強くなった」と言われるので、少しずつでも続けようと思います。恐らくまだ伸びしろの方が多いです。私が道場に現れたら相手をしてください。

 

「何かに打ち込むことが出来なかった自分」というコンプレックスは果たして克服できたのでしょうか。

早慶戦が終わってからゆっくり振り返ってみたいと思います。

 

最後に、23年前のスキーの送り迎えから、今の私の柔道部生活までずっと温かく見守り、サポートしてくれている両親、何かと迷惑ばかりかけてきた妹たちにに感謝したいと思います。